第25話 別れ

 楓の任期を知ってからというと、閉店への準備をすること以外は特に変わったことはしなかった。

 むしろその準備が、俺の心を納得させてくれた。──もう、終わりなんだと。

 密かに思うだけで留めた“お別れしたくない”という感情は、ゆっくりゆっくり溶けていくのを感じる。楓へ抱いてきたあの苦い薬のような味の想いは、トローチだったのかもしれない。





 その苦味が完全に溶けきる少し前、楓がこんなことを言った。



「優紀さんと過ごした日々はあっという間でした。ほんとに楽しかったです」



 俺は唾液に混ざった苦味を少し飲んで「ああ、俺も楽しかった」と返す。



「あの時出会ったのが優紀さんじゃなかったら、あの時優紀さんに話しかけていなかったら、って考えてしまうんですよね。優紀さんじゃなかったら、きっとゲーセン開業の夢は叶えられませんでした。

 だからあの時話しかけた僕を今でも褒めれます! ほんとうに出会えてよかったです!」



 俺は目元に熱を持って、鼻がツンとして、今の顔を見せられなくて、俯いた。そのうち頬に暖かい水が伝う。



「楓。ありがとう」



 選んだ言葉は単純すぎたかもしれない。けれど、それしか思いつかなかった。



「はい! こちらこそありがとうございました」



 俺の視界には楓の足元しか見えないけれど、その足元には小さな水たまりができ始めていた。






 こうして楓は任期を迎え、俺の隣から離れていった。一通の手紙を残して──。






「堀部くん、これ代田くんからなの」



 楓がいなくなった日の夕方、眠夢様が片手に便箋を持って、俺の所までやってきた。

 俺はその便箋を受け取って、ゆっくりと開く。



『優紀さんへ


 僕は優紀さんとのお別れをしたくなくて、挨拶をすることが出来ないかもしれないので、これを眠夢様に預けることにしました。

 約8ヶ月前、僕と優紀さんはたまたま出会うことになりましたね。あの時、優紀さんが一緒にゲーセン開業を手伝ってくれると言ってくれてとっても嬉しかったです! あの日の夜はあまりの嬉しさにずっとソワソワしていたんですよ。優紀さんとならきっと素敵なゲーセンができると思って。


 そこからの日々はゲーセン開業の準備に励みましたね。忙しくて、休む時間も少なくて、なのに楽しくて、夢中になれる毎日でした。ゲームにあんなにひたむきになったのも久しぶりで、優紀さんのおかげでワクワクしっぱなしでした。


 それから、マスターとのお別れがありましたね……。きっと僕一人では乗り越えられなかった問題だと思います。あまりにも突然の事だったので。

 マスターがくれた手紙には優紀さんのことが書いてあったんですよ。『優紀さんとなら絶対夢を叶えられる。だから頑張りきるんだよ。でも疲れたら2人でコーヒーでも飲んでまったり休んで、素敵な日々を送るようにね』と。マスターの背中を押してくれる言葉を素直に汲み取れたのは、優紀さんが傍にいてくれたからだと思います。改めてありがとうございます。


 そしてゲーセン開業。不安もありましたが、隣にいる優紀さんの顔を見たら、僕はほっと胸を撫でおろせました。僕には優紀さんのような心づよい人がついてると思ったら、ぜったい大丈夫、という自信が湧いてきたんです。ドアを開けた時、お客様が並んでいた時は開業できた実感が湧いて、心が震えるほど嬉しかったです。あれは優紀さんとだから見れた景色だと思っています。



 あれから数ヶ月、ゲーセン運営はずっと楽しかったです。毎日同じ点検をしてるのに飽きなくて、それに開業準備中は優紀さんとゆっくり出来なかったので、ほっと一息つく時間は心落ち着く一時でした。


 だからこそ、離れ難いと思いました。だからこそ任期を迎えたくないと思いました。いつの間にか優紀さんが“大切”から“とっても大切”になっていました。もっと一緒にいたいと思うほどに。

 でもその願いは叶いませんでした。



 優紀さんは寂しいですか? 置いていく側である僕は、本当に寂しいです。

 もっと早く出会っていたら、もっと長くゲーセン運営が出来たかもしれない、なんて後悔もしています。


 僕にはもう優紀さんが幸せであることを願うしか出来ません。だから優紀さん、お願いですから体は、大事にしてください。僕が居なくてもちゃんとご飯を食べて、健康的な毎日を過ごすんですよ。


 それから、優紀さんらしく好きなことにまっすぐでいて欲しいです。僕はゲームをしている優紀さんが大好きでした。

 なんて、気持ち悪いですよね。すみません。

 でも優紀さんのことを本当に大切に思っているんですよ? だからこそ、伝えたいことが上手く言葉に出来ませんでした。もっとたくさん感謝を伝えるべきだったのに……。

 面と向かって言えなくてごめんなさい。

 感謝してもしきれませんが、今まで本当にありがとうございました。

 どうか、お体に気をつけて。


 楓』



 スーッと頬を滴る水を手で拭いながら、俺は何とかその手紙を読み終えたのだ。



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