緑のたぬき
私の彼氏はマルちゃんの「赤いきつね」が大好物なのだが、私は「緑のたぬき」の方が好きだ。私は緑のたぬきを毎日食べるというだけの、そこらへんに転がっている、どこにでもいるようなただの凡庸な、黒縁の眼鏡をかけた女子高校生である。彼氏も同じ学校で、クラスメイト。学年は一年生。
始業式の日、つまり我々がクラスメイトになったその最初の日のことだった。私は朝、早くに目が覚めてしまったので、せっかくだから一番最初の日を一番乗りで迎えようと考えた。で、学校に行き、教室に入った。すると一人の少年が既に先にいて、インスタントのカップうどんを食べていた。赤いきつね。
「お互い新入生だよな? 早いんだな」
「そうよ。こんなところで朝っぱらからカップうどんなんて、いい御身分ね。キツネさん」
そう言って私も朝食にするつもりで持ってきた緑のたぬきを取り出して机に置いた。魔法瓶に入れてきたお湯を注ぎ、アラームをセットして三分待つ。
「いい御身分はお互い様じゃねえか、タヌキ女。俺は
「……
初対面で、いきなり馴れ馴れしく“お前”と踏み込んできて、あまつさえ人をタヌキ女呼ばわりするその少年の大胆さと不敵さに、私は反発を覚えた。でも、今にして思えば、それは私の中の恋心の芽生えの瞬間でもあったのだった。
私たちはクラスメイト全員の中で誰より先にお互い軽い口を利くようになり、そして、夏休みの始まる前の日、つまり私たちが出会った一学期のその最後の日、私は彼に告白された。
「あ、あのなタヌキ女。お、俺な。実は俺、お前のこと好きだ。恋人になってもらいたいって、そう思ってる。お前はどうだ?」
とても赤く紅潮した顔でそう言う彼を見て、私は悪い気はしなかった。
「恋人とかそういうの、正直言ってよく分かんないよ。でも、二人で一緒に遊びに行ったりとか、そういうのは嫌じゃないかな」
というわけで、私たちは事実上カップルとなった。海に行ったりプールに行ったり遊園地に行ったり縁日に行ったりした。秋も似たようなものだった。
そして冬となり、今日が来た。今日はクリスマスである。「クラスメイトの女友達とパーティーがある」と言って、私は家を出た。実際には事実であるのは相手がクラスメイトであるということだけだ。なぜって、今日はキツネさんと二人、ラブホテルに行くのだから。
断っておくと、そういうところに行くのも、そういうことをするのも、私は初めてである。多分、キツネさんも。ちなみにクリスマスにこういうところは混むわけだが、キツネさんが予約を入れていた。だいぶ前に入れていたらしいが、具体的にいつ予約をしたのかは聞いても教えてくれなかった。
部屋の中に小型の自動販売機があって、何に使うのかよく分かんない道具やスポーツドリンクの類なんかと一緒に、「赤いきつね」と「緑のたぬき」が売っていた。両方とも一個ずつしかないが、確かにマルちゃんのやつだった。
「こんなところにこんなものが売ってるのね」
「そうだな。そ、それより俚子」
「お湯は作れるのかな」
「え、えーと。あ、ほらそこにポットがあるよ」
「じゃ、お湯わかそっか。小腹空いてるの。私がたぬきの方、食べてもいいよね?」
「そりゃもちろん」
で、流しがあるからそこで給湯器にお湯を入れて、沸騰させるスイッチを入れ、私は自動販売機にコインを入れた。両方とも買った。のだが。その拍子だった。
「俚子」
後ろから、キツネさんに抱きしめられた。
「……待って。ちょっと待って。心の準備は三日かけてしてきたけど、でもちょっと待って」
「待ちたくない」
「そうじゃなくて……最初は、キスから。そうじゃない? キツネさん」
「あ、そうか。じゃ……」
くるりと反対側を向かせられ、私は唇を奪われた。これも、ファーストキスなのだった。眼鏡を外さなかったので、こつん、と彼の顔に当たった。
◆
◆
◆
恥ずかしいので、私は軽く身体を清めると服を全部着直して、眼鏡もかけて、そして改めて湯沸かし器のスイッチを入れた。
赤いきつねと緑のたぬきは、何も言わずに私たちがその行為を終えるのを待っていた。いや、当たり前ですけど。ちなみに、性の初体験というものは初心者だと三分の一くらいの確率で、何らかのアクシデントやトラブルで『失敗』するらしいのだが、私たちは三分の二の側だった。無事につつがなくことは済んだ。もちろん避妊具は使った。私たちは高校生で、しかもまだ一年生なのだから。
「お湯湧いたけど。孤月君も食べるの?」
「ああ」
「じゃあ、両方お湯入れるね」
スマートフォンのタイマーを、三分と五分で二つセットして、待つ。緑のたぬきは三分だが、赤いきつねは五分かかるのである。麺が太いから。
「ねぇ……孤月君。私、赤いきつね食べていい?」
「俺が食うものがなくなるだろ」
「孤月君は緑のたぬきの方、食べていいよ。こっちの方が先にできるし」
「……分かった。じゃあ、そっち貰うわ」
三分目のアラームが鳴る。下着いちまいの姿の孤月が蕎麦をたぐり始めた。
「正直、滅多に食わないんだけど。これはこれでうまいな」
「そう。よかった」
五分目のタイマーが鳴った。私は安っぽい木製の使い捨ての箸を割り、赤いきつねのうどんをすすり始める。おあげの甘さが今の私の心にじんわりと沁みるようだった。そして、利尻昆布の淡いうまみが効いている。ここは北海道だから、この赤いきつねは「北海道限定版」なのである。ちなみに、全部食べ比べたことがあるわけじゃないけど、あと他に関東版、関西版、西日本版というのがあるらしいよ。
ちなみに、もちろん最初からそんな風にして売られていたわけではない。赤いきつねの最初のリリースは1975年ということになっているけど、当時はそもそもまだこの商品名ではなかった。赤いきつねと改称されたのは1978年。緑のたぬきの方は、似たような名前で袋麺として売られ始めたのは1963年までさかのぼるんだけど、緑のたぬきという商品名でインスタントラーメンになったのは、赤いきつねの登場後、1980年のこと。いずれにせよ、私たちが生まれるよりも遠い昔の話だ。
「ところで。その。俚子、大丈夫か? まだ痛かったりしないか?」
「痛いよ。でも、平気。これは孤月君からもらったものだから、私は平気」
「俚子……」
下着しか付けていないから、それがまた、そのための状態になったのが分かった。もう、孤月ったら。
「……ごめん。でも今からもう一回は、ちょっと辛いかも」
「そ……そうか。うん。そうだよな」
インスタントの蕎麦を食べ終えた後、孤月は服を着始めた。私の彼氏はぶっきらぼうでがさつだけど、本当はとても、私のことを気遣ってくれる。
今夜この夜を共に過ごしたのがこの人で良かったと、私は心から思った。優しい優しい、私の愛しのキツネさん。
わたしの、はじめての。 きょうじゅ @Fake_Proffesor
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