第40話

 手に提げていた袋から水筒を取り出す少年。


「正直これはあまりやりたくなかったんだけどしょうがねえ」


「な、何をするつもり……」


 中身は危険な薬品かもしれない。そう思った吉乃よしのは身構えた。が少年はそれを開けて蓋に注いで普通に飲んだ。一息吐き口元を拭い口角を上げる少年。


「ふはは吉乃、ぶっかけられるとでも思ったか? まあ、いつものお前なら分かったんだろうがな。ちなみに中身は梅ジュースの原液だぁ」


「う、梅ジュース、の、原液?」


 だから何だと言うのか。と言うのが正直な感想ではあったのだが、どうしてか胸の奥で言い知れぬ不安が騒ぎ出していた。一見状況にそぐわぬ彼の行動なのに、このあと何か、歓迎しない何かが起きてしまうような。


「それからこれだ」


 今度は何故か玉ねぎを取り出した。


「っ!?」


 目に鋭い痛みが走った気がした。それは確かに気のせいであったが、吉乃には体験したことがある痛みのようにリアルに感じたのだった。


「こいつはなタマ子の特製だ。理屈は分かんねーけどとんでもねーらしい。泣きながら用意してたぜ。おかげでこっちも目が痛てえ」


 タマ子、ちゃん……?


「ど、どう言うこと?」


「さあな自分の胸に聞いてみな」


 そう言って少年は仰々しいマスクを取り出し徐にそれを装着した。マスクの下の顔が不敵な笑みで歪んでいる。


(ガスマスク? やっぱり水筒の中身は危険な……、いやでも飲んでたし……、なんで今……、それにあの玉ねぎは何?)


 訝しむ吉乃の前で準備は整ったとばかりにゆっくりと立ち上がる少年。しかしただ立ち上がるだけのはずなのに何かおかしい。


「な……(何だかでかくなってってないかしら……?)」


 体をこちらに向けながら立ち上がる少年のその様が確実に変化していく。四肢は太く、胴体は膨らみ、着ている服は内側から弾け飛びそうにパッツパツになっていく。その原因は隆起する筋肉。そう、筋肉!


「あ、あ……」


 吉乃の頭の中でフラッシュバックが起こる。チカチカと点滅する筋肉。迫る筋肉。店長と巨大化した紅緒べにおの、胃もたれしそうなあの朝の異様な光景。


 お、思い出し――。


 そんな吉乃の思考を遮るように筋肉紅緒が喋り出す。片手には玉ねぎを握りしめて、さっきよりも野太く丁寧な声で。


「吉乃さん、正直こんなことはしたくない、だけどこれはあなたの為なんです、あなたに思い出してもらうため」


 握りしめられた玉ねぎからは既に雫が滴り落ちている。


「い、いや、紅緒、あの……」


 前回よりも明らかに肥大化した筋肉と、目の前の異常な光景から受けた衝撃で思い出した記憶、この現実にぼやけていた頭が追いつかない。そのせいで言葉が上手く出てこない。おまけに着ぐるみを着ているせいか表情やジェスチャーで伝えることも難しい。


 私、思い出したよ。

 その言葉を言えないまま吉乃は耳にする。


「御免っ!」


 瞬間、着ぐるみの狭い視界から紅緒が消えた。と思いきや驚いている間もなくすぐさま引っ張られるような衝撃。その通り、一瞬で目の前まで移動した紅緒に着ぐるみの頭を引っ張られたのだが、吉乃はほとんど認識出来ていなかった。ただ瞬き程の間に少し離れた位置にいた紅緒が消え、揺れる視界の中に影が現れた。加えてさらに次の瞬間、もっと近く、本当に目の前、鼻先、着ぐるみの頭の中に下からズボッと何かが現れた。


(な、何が……)


 生存本能からくる危機回避反応か、とにかくそれを認識しようと極限の寄り目になる吉乃。そして見定める、着ぐるみの胴体と頭の間の隙間から差し込まれた逞しい腕とその先の手に力強く握られた汁の滴る玉ねぎを。


 嫌っ――。


 その声にならない声はその後に起こることを察した吉乃の脳がいち早く発した声。

 しかしもちろん紅緒には聞こえない。


大世界掌握玉葱オニオンクラッシュ


 紅緒の静かな一言の後、着ぐるみの頭の中で握り潰された玉ねぎが爆発した。






 気絶していたのだろうか、いつの間にか横になっていた。潰れた着ぐるみの頭を枕代わりにしている。何となく覚えているのはその頭を脱ぎ捨て叫び散らかしながら着ぐるみの腕を引きちぎろうとしている自分。素手で眼を擦りたかったのだ。だけど叶わなかったのだろう、まだ着ている着ぐるみに腕は付いているし記憶はそこで途切れている。


「吉乃さん、大丈夫ですか?」


 青年紅緒が隣に座っている。何となくさっきより萎んで見える。


 ああ、そうか……。


 事の顛末をしっかりと思いだした。顔はカピカピに渇いているが、頭はスッキリしている。ぼんやりしているのはこの丼の中の空だけだ。


 吉乃は乾いた喉から小さな声を出した。


「世界中の……、世界中のハリネズミが私の目玉でバレーボールをしているの。しかもあいつら手が短くて届かないからって背中でトスやレシーブをするのよ。私はそれを滂沱の涙を流して見ていたわ。コートサイドで牛丼を作りながら」


「良かった、いつもの吉乃さんだ」


 安心したような声で紅緒は呟いた。

 そんな彼に言いたいことは色々あったがとりあえず先ずは一言言わなければならない。


「ありがとう」


「いえ」


 少し間を空けて紅緒が続けた。


「本当はこんな手荒なことをしたくなかったんですがショック療法を進める神主様のアドバイスもありまして」


 ……神主マジあいつ覚えてろ。


「実は……、最初はこれを食べてもらう計画だったんです。吉乃さんが元に戻ったのであれば必要のないものなんですが、俺としてはせっかく小さい俺や皆が頑張って用意したものだからと思いまして捨てる気にはなれず」


 そう言って紅緒は四角い箱を差し出してきた。受け取ったそれは弁当箱だった。まだ温い。手作りなのだろう。


「これ……」


「ええ、飯田はんだ兄弟の件を参考に牛丼を食べて思い出してもらう作戦でした、最初は、ですが……」


 紅緒は言い淀み俯いた。

 その理由に疑問を感じつつ吉乃は彼の横顔から視線を外し弁当箱を開けた。


 ああ、そっか……。


 そしてすぐに気が付いた。彼らの過ちに。


「豚丼だこれ」

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