第39話
夢を見た。私が私じゃない誰かになって恋をしている夢だ。ずっと追いかけてやっと叶った恋だった。幸せな結末を迎えるはずの恋だった。だけど彼は自分でも気が付かないうちに疲れてしまっていた。だから迷って立ち止まって振り返った。そうすれば思い出せると思ったから。でもそこには何も入っていない丼があるだけだった。それを手に取り彼は気が付いた。自分には何も無かったことに。そして思い至った。ああそうか、同じだ、俺も空っぽだったんだと。
今日もまた歩き慣れた街を行く。大学生になってアルバイトを初めてからいつも通る道。駅に向かう学生達の流れを外れ、色を変えていく街を眺め、自然と気持ちが切り替わっていく。今日受けた講義の内容、学校であった出来事、食堂で食べた定食の味、そんなことを考えていた頭も足取りと共に仕事のそれに変えていく。タイムカードを押してからの業務の流れ、混雑時のこと、常連さんの顔。そうだ、あの人は今日も来てくれるのだろうか。
んー、あれ、でも、えーと、あの人って、誰だっけ? それに仕事って、何をするんだっけ……。
何となく疑問を感じるも束の間、体はいつの間にか目的の場所へと到着していた。
商店街の一店舗、なんだか分からない四角い建物の前で
ああそうだったここで私は働いている。この建物の前、いつもここで着ぐるみを着て看板を持って。
建物の前に無造作に置いてあるカウカウミート君の着ぐるみをモソモソと着始める吉乃。足を入れ、袖を通して、チャックを上げて、大きな頭を持って……。
頭を被る前に改めて疑問が浮かぶ。
ここで私は一体何をしているのだろうか? これは一体どんな仕事なのだろうか? それに何か、何かやらなければいけないことがあったような気がするのだけれど。
しかし考えはまとまらない。ひどくぼんやりしてゆっくりと霧散していくだけ。
そんな霧の中にピンク色がちらついた。それは見たことがない奇抜な髪色のはずなのにやけに見覚えのある色だった。アルバイト中に急に現れておかしなことを言っていた馴れ馴れしくて不躾な少年。
そう言えばあの子、どこかで……。でもやっぱりあんな紅生姜みたいな……。紅生姜……。
どうしてもそこが引っ掛かる。だけど思考がそこから先に進まない。まるで何かに邪魔をされているかのようだ。
駄目だ。分かんない。
とは言え何もしないでずっと考えている訳にもいかない。とりあえず手は動かす。
着ぐるみの頭を被り視界を確認。それから建物の横に置いてある大きな牛の置き物を引き出して来てその表面の埃を拭き取る。艶々としたボディと揺れる頭。人間一人乗れる大きさだ。と言う訳で跨がる。着ぐるみだから足が上がらないし意外と難しい。一人奮闘しつつ上に乗って一息。その様はさながら荒馬に乗ったカウボーイ、と言いたいけれど、実際は巨大赤べこに乗ったずんぐりとした牛の着ぐるみ。牛 on the 牛。
さてと……。
そうして満を持して看板を掲げる。一回り大きくなった看板には以前と同じく『牛肉』と書かれているのだが、花飾りやカラフルな牛の角など前回使った時よりも無駄に装飾が施されていた。そのせいもあって結構重い。
おっとと。
何とかバランスを取る。へいへい、こちとら昨日今日始めた新人でもないんだぜ、なめるなよ。と言うことで気合いを入れて業務開始。
「よし、今日も一日……」
しかし一人呟こうとしたその時だった。
「頑張るぞっ、じゃねえええー!」
「な、何!? うわあっ! おとと……」
盛大に邪魔が入ってまたバランスを崩しかけた。突然の大声に何事かと思いそちらを向くと例のピンク髪の少年がこちらに向かってズンズン歩いてきていた。手提げ袋を持っている。
「やいやいやい吉乃、また妙な要素を増やしやがって、どういう状況だそれは! 夢の中だとしても自分がやっていることにちょっとは疑問を持てやあ!」
「ま、またあなたですか!?」
「吉乃この野郎、こっちの苦労も知らねえで、とりあえず降りろ! あと牛を脱げえ!」
「だからアルバイト中なんです!」
「そんなバイトがあってたまるか!」
驚いたしいきなり怒鳴られて怖い、はずなのだけれど不思議と恐怖は感じていなかった。逆に対抗したくなるような、そしてそれがしっくり来るような……。まるで慣れた人とキャッチボールでもしているみたいな感覚だった。
と、意識を他にやっているとまたまた看板を倒しそうになる。
「うわっとと、あぶなっ」
「いいから降りろって! 話になんねーよ!」
要求を飲んだようで癪に障るが一理ある。この状態で話すのはあらゆる面でこちらが不利だ。パンチでもされたらカウカウミート君のふかふかボディ以外に防ぐ術もない。間違って看板を倒したりしたら店長に大目玉だ。……うん? ……店長?
一瞬ふかふかボディとは対極の何かが頭の中を過ったような気がしたが考えている場合ではない。今は目の前のこいつを何とかしなければ。
「全く本当に何なんですか」
看板を置き、牛を降りて対峙する。
「本当に分かんねーか? 少しもおかしいなとか思わなかったのか? こんな訳分かんねー建物の前で意味不明なことやってても」
そう言われると確かに違和感と言うか、疑問は感じていた、がそれを今認める訳にはいかない。
憤りを込めた溜息を一つ吐いて吉乃は反論する。
「いいですか? 人は誰しも多少なりとも自分のやっていることに疑問を持ちながらも、その時々でやらなければならないことをやっているんです。その積み重ねが人々の大切な日常を作っていくんです。私にとってのこの仕事も同じです。一見不必要に思える仕事でもそれが誰かの日常を作っていくんだって確か誰か偉い人も言ってましたよ」
講釈を垂れる牛。
「……缶コーヒーのCMだろそれ言ってたの。はあ、やっぱり駄目だな、こうなったら神主の言う通り実力行使しかないか」
「じ、実力行使?」
不穏なことを言って目の前のピンク髪の少年はしゃがみ込んだ。
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