第38話
暫し目が合う牛と紅生姜。牛のつぶらな瞳にはプラスチックな光沢。実際には鼻の穴辺りから見られている気配。
着ぐるみ、だよな……。
見た目からしても絶対そうだが確証が持てない。だってこんな世界だ。それに着ぐるみだとしたら中には一体誰が……。いや、待てよ、この状況でそんなの一人しか……。
思い当たった名前をとりあえず口にしてみる。
「何やってんだ
『牛肉』
販促ポップのような派手な色合いでそう書かれている。売り場を示しているのだろうか。それとも牛肉が安いと言うことだろうか。いずれにしろこんな路上じゃ場違いだし意味が分からない。
ジトっと見ていると中の人がそわそわしだした。どうやら紅緒の予想は当たっているようだった。
「おい吉乃」
また体を揺らす着ぐるみ。グラつく頭。落ち着かない沈黙。やがて中からか細い声が聞こえてきた。
「ど、どうして私の名前を……?」
その知っている声に妙に安心して力が抜ける。
「はあ、何寝ぼけたこと言ってんだそんな場合じゃねーだろ。まあ、案外早く見つかって良かったけどさ。全く、さっさと帰るぞ。早くこれ脱げって」
着ぐるみの頭を取ろうとする紅緒に吉乃が抵抗する。
「いや、ちょっと、何するんですか、私アルバイト中なんですけど」
想定外の反応が返ってきた。
「バイトぉ? 何言ってんだ?」
「ここで着ぐるみ着て看板持ってるアルバイトなんですから邪魔しないでください」
「は? いや、いやいやいや、は? 丼の中だぞここ」
「丼? そっちこそ何言ってるんですか? 意味が分かりません。あっち行ってください」
着ぐるみを着た吉乃が姿勢を正して看板をまた掲げた。
『牛肉』
嫌な予感を覚える紅緒。それはついさっき
「……いやまさかもう、いや待て待て、そんなことねーだろ覚えてるだろ流石に、なあ、吉乃、冗談だろ?」
「私は真面目です。真面目に働いてるんです」
『牛肉』
これはヤバいかもしれない。
「分かったって牛肉はもういいよ。えっと……、働いてるってその看板を持ってるのがか?」
とりあえず探りを入れる。
「そうですよ。大学に入ってからずっとやってるんですから」
「大学に入ってからって、吉乃お前今は無職だろ」
「が、学生ですけど私は!」
「学生!?」
「そうです!」
「あー……、じゃあ何だ、お前は今大学生でここで着ぐるみのバイトしてるって言いたいのか?」
「だからさっきからそう言ってるじゃないですか!」
ヤバいこれは完全にやられてる。しかもどう言う訳か学生になってる。ど、どうする?
そうだ、と思い振り返る。
「コメ屋、お前の先輩の! 流石に覚えてるだろ。なあ、あんたも何か言ってくれよ! 吉乃だよ、吉乃!」
紅緒とは違ってどこかぼんやりした様子の米屋。
「えと、着ぐるみだから分からないけど、もしかしたら学校で会ったことある、の、かな」
「え、あ、たぶん……」
二人ともそれだけでめぼしい反応は返ってこない。
「マジかよ……、いや吉乃! 違うだろ! バイトだって着ぐるみじゃなくて、そこの牛丼屋で……!」
建物を見るもそこに店はなく、入り口も何もない空っぽの巨大な箱があるだけだった。まるで背景の建物を書き忘れたかのように。
「何だこれ……」
異様な光景に紅緒の焦りが増す。
「なあ吉乃! とにかく早くここから出ようぜ! やっぱりヤバいってこんなとこ!」
吉乃の体を揺する紅緒。ガクガクと着ぐるみの頭が揺れる。
「や、止めてください! だ、大体何なんですかあなた……! そんな、変わった色の……、あれ……? 何て言うか……、その……、紅生姜、みたいな……」
吉乃の口から出た紅生姜と言う言葉にハッとするも邪魔が入った。
「君!」
米屋が叫んだのだ。
何事かと反射的に振り返るとそこには丼を持った彼の姿があった。あの丼だ。
「お前、それ……!」
言うが早いか、丼から放たれた光によって紅緒の目の前は真っ白になった。
そして気が付くと紅緒は複数の顔に見下ろされていた。タマ子、飯田兄弟、神主、丼の外で待っていた者たちの顔だ。紅緒は丼によって外に吐き出されたのだった。
「紅緒さん! 大丈夫ですか!? 紅緒さん!」
タマ子の心配そうな声が聞こえていたが、ショックのあまり放心状態になっていた紅緒はすぐに答えることが出来なかった。
座卓を囲む面々。落ち着いたあと紅緒は一通り体験したことを説明した。それを聞き神主は一人納得したように頷いた。
「なるほど、恐らく丼はその米屋さんと言う方に取り憑いているのだと思います。短時間で力を得た理由はそれですね。話を聞くところによると今回の付喪連鎖の関係者のようですし、丼は吉乃さんがこの町を離れている間に彼の前に現れたのでしょう。紅緒さんがそうであったように付喪神には帰巣本能のようなものがあり縁のある人間を探します、空っぽも同じなのでしょう」
タマ子が不安そうな顔で聞いた。
「あの、その方と吉乃さんはもう記憶を食べられてしまったのでしょうか?」
「いえ、恐らく吉乃さんたちは今、丼によって夢を見させられている状態です。その夢の中で夢を現実だと思い込ませ本当の現実の記憶を自分から手放してしまった時、空っぽは記憶を食べるのです」
「質が悪いな」
銀次がそう呟き、太一が神主に尋ねる。
「じゃあどうしたらいいのでしょうか?」
「目を覚まさせる」
神主が答えるより早く紅緒がポツリと言った。
「ええ、或いは紅緒さんに会えばそれでと思っていたのですが意外としぶとかったようです」
その言葉に神主を睨む紅緒。
意外と、じゃねーよ、お前本当に……。
しかし言葉に出さなかった、紅緒は今そんな適当な神主に対して以上に別の対象に腹が立っていたからだ。
くそ……!
始めは恐怖やショックの方が大きかったが、沸々と怒りが沸き上がりそれらを上回って来ていたのだ。
家主のくせに居候を忘れる? 無職のくせに学生気取り? 牛魔王のくせに一徹を忘れる? 米屋のことはどうするつもりだ!? それでどんだけ俺が牛丼食わされたと思ってんだ、ふざけんな! 吉乃のくせに! 吉乃のくせに!
「さっさと目を覚まさせてやる……!」
紅緒は机を強く叩き立ち上がった。
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