第35話

「こ、これは……!」


 真ん中のブリッジの位置に大きな『見』の字がぶら下がった珍妙な眼鏡をかけた神主が顔を上げた。『見』の網目部分が鼻にはまり、鼻の穴の位置辺りに『見』の足の部分が来ていて、それがちょうど飛び出した鼻毛のように見えて腹立たしい。


「なあ、こいつ殴っていいか」


「まあ待て銀次ぎんじ、気持ちは分かるが押さえろ」


 後ろで兄弟がそんな風にしている事にも気が付かずタマ子は心配そうに尋ねた。


「それで、あの、神主様、吉乃よしのさんは大丈夫なのでしょうか?」


「ええ、そうですね。無事……、だとは思います。恐らくではありますが」


 隣の紅緒べにおが突っ込む。


「恐らくってどういうことだよ。それにこいつは何なんだよ」


 その声に神主が紅緒の方を向いた。「これはですね」としっかり目を合わせて話し出そうとする。クイッと上げた眼鏡が腹立たしい。引っかかっている鼻も微妙に動いて本当の鼻毛が見える。なのに神妙な顔が腹立たしい。何ならこいつの存在が腹立たしい。


「……いや、ちょっと待て、まずそれを外してくんねーかな。俺も手が出そうになってる」


 怒りを鎮めるために紅緒は一度深呼吸をした。


「ああすみません、気になりますよね突然こんな眼鏡をかけてしまって。実はこれは御見通し眼鏡と言いまして、付喪委員会の発明品でございます。何と神通力を……」


「いや、いい、今その眼鏡の説明はいいから、やってることはなんとなく分かるし、とにかく終わったんなら早く外してくれ、ここで暴力事件が起こる前に」


「そう、ですか」


 なぜかしょんぼりしながらも神主はやっと眼鏡を外した。


 紅緒たちは今、吉乃の部屋の中で丼を囲んでいた。

 吉乃が消えたあの後、紅緒たちはすぐに神主に連絡を取った。神主は話を聞くとたちまちにやって来た。慌てた様子を見るとどうやら神主にとってもそれなりに緊急事態のようだった。吉乃が消えたのだから紅緒たちにとっては言わずもがなだったのだが。


 丼には現在『封』と書かれた札が張ってある。神主が現場に訪れた際に念のためと言って張ったものだ。効果のほどは定かではないが、神主が当たり前のようにそれを使用したところをみるとその通りの効果があるのだろう。とは言えそんな札を張る前から丼は閉じていた。いや、閉じていたと言うよりも開かなくなっていたと言った方が正しい。紅緒たちは神主が来る前に不用心にも一頻り丼に触れていたのだが、その際に蓋を取ろうとしたところ、どうしても蓋が開かなくなっていたのだ。


「んで、なんなんだよこれは。そんで吉乃は?」


 神主がやたら丁寧に眼鏡を閉まった後、紅緒が仕切り直した。それに神主が答える。


「これは恐らく、空っぽ」


「は? 中身が入ってないってことか?」


「あ、いえ、そうではなくてですね」


 そこでタマ子が声を漏らした。


「私聞いたことがあります」


 その発言で皆の注目が集まって少し狼狽えるタマ子。


「あ、あの、えと、以前玉ねぎ師匠が言っていたことが、あ、ありまして」


 度々出てくるその師匠とやらはなんなのか、この際それは置いておく。


「つ、付喪神になれなかった物の、成れの果てだと」


「成れの果て……」


 太一たいちが呟いた後、皆が黙り丼を見た。相変わらず見た目は何の変哲もない丼だ。少なくとも付喪神のようには見えない。そこで再び神主が口を開く。


「ええ、そうですね。そのように言われることもあるようです。わたしも実際に目にするのは初めてなのですが……」


 と、そこから神主が説明を続けた。


 付喪神が人の想いを受け長い年月を経て道具や物、或いは食材に魂が宿ったものだとすると空っぽはその逆。誰にも何にも想いを注がれず、道具としての本来の役目も果たせず、人知れず捨てられたもの。それが何らかの切っ掛けで神通力に似た力を持ってしまったもの。そしてこの丼がその空っぽであると思われること。


「実は付喪委員会の方に最近いくつかの不審情報が寄せられていました。調査中ではあったのですが、今日これが松谷まつたにさんの所に現れたとなると……」


 不審情報、その原因がこの丼である可能性が高いと言う。さらにはそれは吉乃と紅緒にも関係しているらしい。


「俺と吉乃に?」


 しかし紅緒に心当たりはない。


「不審情報はあの神社を中心に発生していたのです」


「いや、だからって……」


「弁当の盗難、食材の消失、牛丼屋における謎の食い逃げ……」


「……それを聞くと確かに俺らが関係してんのかもって思うけども」


 心当たりはないが言い知れぬ共通点を感じる紅緒。


「空っぽは切っ掛けもなく突然発生する訳ではありません。それはこの丼も一緒です。ではこの丼における切っ掛けとは何か。最近あの神社で起きたことと言えば」


 紅緒には思い当たることがあった。


「雷」


 牛丼を焼き、吉乃の髪を焦がし、そして紅緒を生んだあの落雷。


「ええ、さらに言えば吉乃さんと紅緒さん自身です。付喪連鎖と言う言葉をご存じですか?」


 それを聞いて皆は顔を合わせた。


 知らない(太一)、知りません(タマ子)、俺の辞書にそんな言葉は無い(銀次)。


「何だよそれ」


「一柱の付喪神が生まれた時、何らかの影響で連鎖的に複数の付喪神が生まれることがあるといいます」


「なんかゴキブリみてーだな」


「ゴキ……!?」


 何気なく呟いたであろう銀次の言葉にタマ子がショックを受ける。


「そういや、あの桃も俺らが店長さんの所に行ったら急に出て来たな」


 後ろで泣きそうなタマ子をなだめている兄弟を放っておいて話は進む。


「人の想いは巡り還るもの。その過程で多くのものに影響を与え与えられるのは必然。人と生きる付喪神もまた同じ。恐らくこの丼は親和性の高い吉乃さんの想いに呼応して空っぽとしての力を得てしまったのでしょう」

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