第33話

「それとだな、吉乃よしの君、これを受け取って欲しい」


 店長はどこに持っていたのか綺麗に畳まれたエプロンを差し出した。


「え、これ……」


 それは昨夜店長がつけていたエプロンだった。

 差し出すポーズで固まっている店長の代わりに隣の奥さんが説明する。


「吉乃ちゃん受け取ってあげて、昨日の夜その人それを渡す練習までしてたのよ。あ、ちなみにちゃんと洗ってあるから。汚くないから安心してね。夜のうちに洗って乾かしたのよ」


「おまっ……! 余計なことを言うな!」


 顔を赤らめ小さく店長が反論する。


「いいじゃないの」


 奥さんが店長を叩く。「ぐぅ」と彼の筋肉が初めて震えた。


 二人のやり取りに微笑みつつも内心緊張してエプロンを受け取る吉乃。不思議な重みが彼女の手に馴染む。


「いいんですか……?」


 大事な物のはずだ。


「いいんだ。正直持て余していたからな」


 そんな風に言う店長の横で奥さんが一言。


「照れ隠しよ」


「うるさいな」


 まあ、その、なんだ、と改めて吉乃に向き合う店長。いつの間にか桃が肩に乗っている。


「頑張れよ」


 桃もサムズアップ。なんだか微笑ましくて笑ってしまう。


 今度は奥さんが言う。


「吉乃ちゃん! 本当にまた来てね。遠慮しないでいつ来てもいいんだからね。吉乃ちゃんはうちの人のたった一人の弟子なんだから。それから紅緒べにおちゃん、また一緒にお茶しましょう。新作のお菓子も食べて欲しいし」


 たった一人の弟子。その言葉が嬉しかった。鼻がつんとして涙が滲む。

 紅緒が奥さんに返事をする。


「はい。またお茶しましょう。新作スウィーツ楽しみにしています。だから本当に元気でいてくださいね。体を壊すなんて無しですよ」


 それから紅緒は店長の方を向いた。


「店長も筋肉、大事にしてください。なんせ俺のライバルですからね」


 店長の大胸筋がピクリと反応を示した。紅緒もそれを感じとり二人の間に緊張が走る。ジリジリと間合いを取った二人は弾かれたようにポージングを繰り出した。


「やめろお!」


 しかしすぐさま吉乃がそれを止めた。

 公共の場であれは駄目だ。


 渋々ポージングを止めた店長の肩の上、桃がポンポンと彼の頬を叩く。


「そうだ、お前、あれ」


「はいはい、ちょっと待ってくださいね」


 店長と奥さんが車の荷台から紙袋を取り出した。


「吉乃ちゃんこれ。ちょっと重たくなっちゃうけど」


 昨日の夜、牛丼に使ったものと同じ桃酒と生姜だった。


「そんな、いいんですか。私あとで買おうと思ってて。お酒だって代わりのものを探そうかと、このお酒はもうこれしかないから」


「いいのよ。遠慮なんかしないで貰って」


「いいんだ、使ってくれ」


「……あ、ありがとうございます」


 吉乃はまた深々と頭を下げた。


「もー、そんな畏まらないで。必要ならいつでも言ってね。送ってあげるから。それから」


 さらにもう一つ紙袋を荷台から取り出す奥さん。

 袋の中に入った円柱形の瓶には紅生姜が漬かっていた。


「今渡せるのがこれしか無くて、ちょっと申し訳ないんだけど」


「そんな全然!」


 吉乃が勢い良くかぶりを振った。


「これは紅緒ちゃんが持っててね。あなた紅生姜なんだから。梅ジュースも入れておいたわ」


 紅緒に紙袋を渡した後、奥さんは少し畏まって言った。


「吉乃ちゃんをよろしくね」


 紅緒が奥さんの目を真っ直ぐに見て返事をする。


「はい。他ならない奥さんの頼み、身命を賭して」


「ちょっと、大げさでしょ」


 吉乃の反応に奥さんが笑う。つられて店長も笑った。桃も楽しそうにしている。


 最後にそれぞれ再び別れを告げ、吉乃と紅緒は改札に向かった。途中振り向くと、店長と奥さんはまだそこに居て手を振ってくれた。肩の上の桃も一緒に。遠くに見えるその姿は吉乃には希望そのものに見えた。






 やがて列車は出発し淡々と速度を上げる。一面に広がっていた果樹園も車窓に遠くすぐに見えなくなり、別れの余韻も霞んでいく。しかし車内ではガッツリ引き摺っている者が居た。


「ねえ、泣き過ぎじゃない?」


 言ったのは吉乃、言われたのはその隣の紅緒だった。借りたハンカチに顔を埋めている。


「ずびばぜん」


 やっと泣き止んだ紅緒は鼻を啜りつつ顔を上げた。そのままハンカチで鼻をかもうとする。


「ああ! 止めろ! 止めて! ほら、ティッシュ! 鼻はこっちで!」


 吉乃は紅緒からハンカチを奪い取りポケットティッシュを渡した。そして奪い取ったハンカチを見て驚く。


「何これ? 赤いけど?」


「あ、俺の涙梅酢なんです」


 そう言って紅緒は鼻をかんだ。


「うえ、要らん設定増やすなよ……」


「ちなみに鼻水は普通です」


「見せるな!」


 吉乃は溜息を吐いた。


「あんた本当に……」


「紅生姜ですよ」


 紅緒は先手を打つように言った。


「……分かってるわよ、いい加減」


 出鼻を挫かれた吉乃は少し黙ると、ところで、と切り返した。


「小っちゃい方はどうなっちゃったのよ。てか元に戻るのそれ?」


「分かりません」


 随分あっさり言う紅緒に吉乃が呆れて抗議の声を上げようとすると彼が続けた。


「恐らくですが一時的な変化だと思います。然るべき時間をかけて成長すればいずれこうなるのかも知れませんが、今は効果が切れれば元に戻るのではないかと」


「ふーん……。あとあんた中身って言うか、性格も変わってる気がするんだけど」


「ああ、ちゃんと同一人物ですよ。人間も同じでしょ、成長して変わったんですよ。だから別人格と言えば別人格ですが、同一人物と言えば同一人物です」


 もう分からん。紅生姜ってこう言うもんなの? てか付喪神ってなにさ。桃も出てくるし、やりたい放題やりすぎだろ。


「はあ、神主案件だわ」


「何ですかそれ?」


「訳わかんないことはそう言うことにしたの。自分の精神を守るために」


「なるほどです」


 視線を逸らし外を眺める吉乃。つられて車窓を見た紅緒が目を細める。


「今日もいい天気ですね」


 紅緒の言う通りだ。それに梅雨だと言うのにこの二日は結局晴れっぱなしだった。

 ふと吉乃の頭に変な考えが浮かぶ。


「あんたさ、例えばずっと日に当たってたりしたら乾燥生姜とかにもなったりすんの?」


「さあ、どうでしょうね。やってみる価値はあるかもしれませんが、でもいずれ年を取ったらそうなるのではないでしょうか」


 吉乃は考える。爺になった紅生姜を。


「乾燥と加齢は違うからな」


 そんなどうでもいい二人の会話を乗せて列車は進む。線路は真っ直ぐ続いている。

 ついにレシピを得た吉乃、旅から帰ればいよいよ決戦が始まる。


 そこで車内販売に気が付いた吉乃が言う。


「あ、牛めし弁当を」


「ええ!? まだ食べるんですか?」


「二つ」


「俺もですか!?」


 ちなみに紅緒は食後に一眠りしたら元に戻った。

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