第32話
翌朝。
「あらあら? 成長期だからかしらね」
「ん、あ、おはようございます奥さん」
「おはよう吉乃ちゃん」
なんとか上体を起こした。しっかりと寝癖が付いているであろうことが自分でも分かる。頭もまだぼんやりしている。あくびをしたり目を擦ったり一通り眠気を追い払う行動をする。
やがて少し眠気が覚めてきたころ、吉乃は奥さんがキッチンの手前で立ち止まってじっとこちらを見ているのに気が付いた。
「どうしたんですか?」
「どうしたのかしらねえ、最近の成長期って凄いのかしらねえ」
感心したように言う奥さんの言葉の意味が分からず、吉乃は彼女の視線の先にある隣の布団を見た。
どうしたもこうしたも無かった。眠気が吹っ飛んだ。
ピッチピチのティーシャツを着たでかい男がそこに寝ていた。
「う、うわあああああ!」
単純に驚いた。それがそのまま口から飛び出た。その声は二つの効果を呼び起こした。一つ。召喚。店長が来た。
「何だ? どうした?」
二つ。覚醒。隣のでかい男、すなわち
「何ですか? どうしました? 吉乃さん?」
そして一人と一柱、いや店長と変わり果てた紅緒は混乱極まる吉乃を挟んで出会った。
互いに互いの存在に気が付いた瞬間、彼らは何かを感じ取ったように自分たちの世界に入った。
店長の目つきが変わる。
紅緒の顔から眠りの気配が消える。
店長はゆっくりと紅緒の前に歩み寄り、紅緒は布団の上に立ち上がった。でかい。店長の方がまだでかいが、紅緒も何故か大人の体つきになっているし、二人ともでかい。しかも中々に良い体だった。そう店長が反応を示すくらいに。
下はスウェット、上は肌着の店長。
紅緒は言わずもがな伸び切ったティーシャツと七分丈のようになったジャージのズボン。
紅緒が顔を上げ見下ろす形の店長と視線がぶつかった瞬間、弾かれたように二人は動き出した。
店長は体を横に構え胸を強調しサイドチェスト、からの体の向きを変えてサイドトライセップス。
(切れてるよ! 打倒闘牛筋肉マタドール!)
一方紅緒は、正面に構え上腕二頭筋を見せつけるフロントダブルバイセップス、からのそのまま正面を見据えフロントラットスプレッド。
(仕上がってるよ! 腹筋で生姜すり下ろせるよ!)
そして示し合わせたように二人同時にモストマスキュラー!
(あんたら昨日の牛丼にプロテイン入ってたんかい!)
突如繰り広げられるボディビルのポージング対決と聞こえる幻聴。朝一から胃もたれ確実の状況に吉乃の頭はやっぱり混乱していた。
寝起きいきなりの驚き。訳の分からない紅緒の変化。と言うか本当に紅緒なのかも分からない。
しかし何はともあれこんな状況でこれ以上この光景を見続けるのは辛い。
吉乃はとりあえず声を振り絞った。
「やめろおぉぉぉ!」
ふと気が付くと遅れてやって来たのか桃が店長の後ろでポージングをしていた。
「桃ちゃんもやめて……」
そんな吉乃たちを尻目に奥さんはニコニコしながらいつの間にか朝食の準備を始めていた。
皆で朝食を済ませ、吉乃と紅緒は店長の車で最寄りの駅まで送ってもらった。
結局、紅緒の変化については明確な理由は分からず仕舞いだったが、本人曰く
「奥さんの梅ジュースが俺の細胞に適合したんじゃないかと思います。紅生姜を漬ける梅酢と近いものもありますし、どちらにせよ最高のジュースでしたしね」
と言う説が有力。うん、深く考えたら負けだ。と言うか、これは元に戻るのだろうか。性格も変わっている気がするし。
「吉乃さん今日も素晴らしい天気ですね。澄み渡る空が美しいです」
無駄に爽やかな表情を浮かべている。
「あ、ああ、うん、そうね……」
店長と奥さんは相変わらずの理解力を見せすぐに受け入れてしまったし。
こうなってくるとおかしいのは私の方なのか……?
兎にも角にも駅前のロータリー、店長たちも車から降り、改めて皆で向かい合った。
「本当にありがとうございました」
吉乃は深々と頭を下げ礼を言った。社交辞令なんかじゃない心からの気持ちだ。
奥さんがそんな吉乃の姿を見て「いいのよお」と笑う。
「それに、あの、服も頂いてしまって」
紅緒の方に視線を送る。
彼はピッチピチのティーシャツではなくワイシャツ姿になっていた。紅緒の服が小さいものしかなかったので店長のおさがりを貰ったのだった。
「いいのいいの気にしないで。この人最近小さめのティーシャツとかタンクトップばっかり着てるから」
「でも、すみません、ありがとうございます」
吉乃は改めて頭を下げた。
「本当にいいのよ。この人も久しぶりに牛丼一徹の店長としての仕事が出来て楽しかったみたいだから」
それから奥さんはどこか含みありげに「ねえ」と店長に話を振って、それを受けた店長は照れくさそうに笑った。
「ん、まあ、そうだな、楽しかった」
そのあと店長が言い淀みながらも続けた。
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