第31話
店長が得意げに続ける。
「肉体は私の方がまだまだ上だがあいつも中々だろう」
「え、ええ、そ、そうですね」
「特にこの大胸筋から広背筋にかけてのキレ、バルク、ミートハンマーでもこの筋繊維は簡単には壊せない、それにこの上腕二頭……」
その時居間から奥さんの声。
「ちょっとあなた昔話とお肉自慢はほどほどにしてお料理始めなさいな。
パワハラ=パワーハラスメント、パワー=力=筋肉、パワハラ=筋肉ハラスメント。
あってる(吉乃)。
あってる(
吉乃と紅緒の頭上で同じ方程式が展開された。
「お、おう、そうか……」
肉に溺れそうになっていた私を救った女神(奥さん)の一言で若干筋肉がしぼんだ店長。咳払いをしてその場を仕切り直す。
「そ、それじゃあそろそろ始めるか」
兎にも角にも準備は整った。吉乃も深呼吸をして気持ちを落ち着かせ返事をする。
「はい!」
気合十分。こうして牛丼レシピ継承の調理が始まった。
一方、その二人の姿を隣の居間で見守るのは二柱と一人。紅緒と桃、それと奥さんだ。こちらはキッチンとは違い特別な緊張感などは無くのほほんとしていた。机の上にフルーツキャップを穿いた桃が座り、紅緒と奥さんは座卓の前に座って菓子を摘まんでお茶を飲んでいる。因みに菓子は奥さんの手作り焼き菓子。クオリティはまるで市販品だった。
紅緒と奥さんはテレビでも見るような感覚でキッチンの様子を眺めていた。
「紅緒ちゃん」
「ん? 何だい奥さん」
二人は今日会ったばかりとは思えない親し気な雰囲気を醸し出していた。二人のコミュニケーション能力の成せる業だろうか。
「私、何だか泣けてきちゃった」
「何だ何だどうしたのさ?」
紅緒はテーブルの上のティッシュボックスを差し出した。
「ほら涙拭けよ」
奥さんは「ありがとう」とティッシュを二、三枚取って、目頭を軽く拭いついでに鼻をかんだ。
「こうやって受け継がれていくんだなって思ったら」
「いやこれ、吉乃の場合はそんな大したもんじゃないよ。なんつうか私怨みたいなもんだぞあれは」
「いいのよ。事情はどうあれ、私達が守って来たものであの子の背中を押してあげられるんなら。それに結果として吉乃ちゃんにこうしてレシピを伝えることが出来たんだから。こんなに嬉しいことは無いわ。あの人もきっとそう思っているわ」
奥さんは再び目頭を押さえた。
「ふーん、そんなもんかね」
紅緒は今度は近くにあったゴミ箱を差し出した。奥さんがそれに丸めたティッシュを入れる。そこで奥さんが「あっそうだ」と思い出したように言った。
「梅ジュースあるんだけど飲む?」
「ん、頂いていいのか?」
「いいわよー、是非飲んでって。今年のは特に上手に出来たんだから。桃ちゃんも飲む?」
結構です。とジェスチャーで返す桃に頷いて奥さんはキッチンに向かった。それからてきぱきと準備をするとジュースの入ったグラスをお盆にのせて戻ってきた。途中店長の筋肉を数回叩いて「こんなのでごめんねー」と吉乃に軽く謝って。
奥さんがお盆をテーブルに置く。氷が心地好い音を立てた。
「おおー、いいねえ」
「でしょう梅酒を漬けていたこともあったんだけど、うちの人お酒飲まなくなってねえ」
へー、と相槌を打ちながら紅緒は梅ジュースを一口飲んだ。
「うん、こりゃあ美味い」
「うふふ、おかわりもあるから遠慮しないでね」
そんな二人と、寝転んで足の体操を始めた桃が眺める先、吉乃と店長は真剣な表情で作業を続けていた。
その日の深夜。
吉乃と紅緒は、居間に来客用の布団を二つ並べて敷いてもらい、そこに横になっていた。店長と奥さんは寝室でもう寝ている。二人は夕食が終わると早々に眠ってしまった。早寝早起きが習慣になっているそうだ。桃も二人についていった。
吉乃は早めに横になったものの上手く眠りに付けていなかった。胸の温度がいつまでも下がらなかったのだ。彼女は静かに布団を抜け出してキッチンへ向かった。
シンク横の水切り籠には夕食に使った食器が四人分乾かしてあった。夕食のメニューは牛丼。伝授の調理は無事に終わったのだった。
彼女は籠に置いてあったコップを使い水を一杯飲むと居間に戻った。再び横になると隣で布団がずれる音がした。紅緒も目を覚ましていたようだ。
「眠れんの?」
紅緒が言った
「ん、んー、まあ、何となくね。ごめん起こしちゃった?」
「いや別に、元々起きてたし」
「そっか」
二人の声が静かに夜に溶けていく。
紅緒が呟く。
「牛丼美味かったな」
「でしょ、あれが一徹の牛丼だよ」
「ん、まあ、コメ屋が食べたがるのも分かるわ」
「うん、分かるでしょ」
「喜んでくれるといいな」
「うん」
二人少し黙って、それまでの会話の余韻が消えた頃、吉乃がそっと口を開いた。
「私さ、先輩のこと好きだったんだ」
何言ってんだ急に、なんて茶化す雰囲気ではなかった。
「知ってるよ。前にも言ってたじゃんか。ああ、俺が指摘したんだっけか、見てれば分かるって」
「あはは、そうだったね。だけど、私やっと、ちゃんと分かったんだ。今もまだ好きなんだって。ずっと好きなまんまだったんだって」
また少しの沈黙。
柔らかな筆で塗ったような静かな夜だった。
「だけどね。本当はもう知ってるんだ。先輩には大切な人が居るって。今もきっと」
吉乃は右手を伸ばした。彼女の右手の薬指に指輪は無い。
「私の恋は終わってるんだ。私はこの気持ちをどうすることもできないまま終わったんだ」
「そんなの自分次第なんじゃないのか」
「うん。分かってるよ。でも私は馬鹿だから、ずっと誤魔化して……。だからずっと引きずったまま。それを無意識に色んなことの言い訳にして変わろうとしなかった。だけど私思ったんだ。自分の気持ちに決着をつけたいって。ここに来て店長達を見ていてそう思えたんだ。私も前に進みたいって。こんなの大袈裟かな」
「別にいいんじゃない、どう思われたって、主役は自分なんだし、結局さ」
「そっかな」
「ま、俺には何にも出来ないけどさ、応援くらいはするぜ、居候として」
「うん」
それからしばらくして紅緒が寝返りを打った音が聞こえた。
「じゃ、俺は寝るよ」
「紅緒」
「ん?」
「ありがとう」
「何だよ改まって」
「何となくね」
「何だよそれ」
「私も寝る。明日も早いし」
「へーい、おやすみ」
「おやすみ、紅緒」
窓から漏れる月明かり、雨に洗われた六月の夜空は明るく透き通っていた。
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