第29話

 楽しそうに「重てー」と器具を弄りちょこまかしている紅緒べにおを横目にしながら完全にジムな工場内を歩く。良く見ると簡易的なシャワー室やロッカールーム的なものまである。


 はー、本当に凄いな、奥さんが凝り性って言ってたけど、何て言うか大人の本気を見たって感じだ。そりゃこうなるわな。


 と隣の筋肉に視線を送るとちょうどその持ち主が「む」と声を発した。


吉乃よしの君あそこに」


「え、あ……」


 店長の言う通り工場奥の一角、ウォーターサーバー用のボトルやプロテインの空き箱なんかが積んであるところで桃がそれらをどかそうとしていた。


「ん、わ、危ない!」


 今まさに桃の頭上で箱が崩れそうになっていた。しかし吉乃がそれに気が付き駆けだそうとしたほんの瞬き程の一瞬の後、彼女の視界には店長が箱を支える姿が映っていた。


「この奥が気になるのかな」


 穏やかに桃に話しかけている店長。そのあり得ない光景を呆然と目にする吉乃。


「は、え、は……、今、えぇ……?」


 隣に視線を落とすと床に力強い足跡が残っていて微かに煙を上げていた。


 え、ど、どう言う脚力? え、て言うか世界観が、え、筋肉って漫画的な……?


「吉乃君、ちょっと手伝ってくれないか? この子はこの奥が気になるみたいだ」


 もちろん誰も彼女の疑問には答えてくれない。些末なことなど構わずに物語は進む。


「あ、は、はい」


 とりあえず吉乃もこれ以上混乱したくないので疑問は捨て置いて店長に駆け寄り一緒に箱をどかす。すると桃は嬉しそうにしてさらに奥へと進んで行った。


 そうして最終的に辿り着いたのは荷物に隠れていた棚の前だった。


 ここだここだやっと着いたぜ、ふう。と言うような仕草をしたあと、棚の下段隅に入っていた木箱を指差す。どうやらそれが目的のものだったようで、吉乃たちに木箱の存在を教えると桃は店長の肩に登り満足そうにして落ち着いてしまった。


「これを教えたかった、みたいですね」


 何かのケースのような蓋つきの木箱だ。吉乃でも両手で抱えられる程の大きさで、特別変わったものではないように見える。


 店長は一度吉乃と顔を見合わせてその木箱を取り出した。重くはなさそうだった。

 紅緒も吉乃たちが何かをしていることに気が付いたようで「なんかあったー?」と近くに寄って来た。


「店長、これ、中身って……?」


「いや、分からない」


「爆発物?」


 そんな訳はないのに紅緒の一言のせいで変な緊張感が生まれてしまった。吉乃には玉ねぎが屈葬されていたと言う経験もある。でも桃はむしろ楽しそうにしているし危険なものではないのだろう。たぶん。


「……開けるぞ」


 皆が見守る中店長が木箱の蓋を開ける。

 大した抵抗もなく外された蓋、中身も一目見る限り変わったものではないように見える。敷き詰められた木製の緩衝材と、その中に取り残されたようにボトルが一本。


「これは……」


 変なものではなかったからかつまらなそうな顔の紅緒、吉乃も思っていたよりも普通のもので安心した半面、拍子抜けした様子、だけど店長だけは一人驚いた表情を浮かべていた。






 そして時間は過ぎ訪れた夕食時。

 店長の家のキッチンでエプロンを身に着け真剣な表情の吉乃。エプロンは気合いを入れるため一徹で使っていたのと似たものを彼女自身が用意してきた。少々渋めの柄だ。


 そんな吉乃の前には同じくエプロン姿の店長。彼が身に着けているのは一徹で着ていたのと同じ物。清潔に保たれているが使い込まれて染みついた汚れや痛みがある。店での経験を記憶しているエプロン。まだ使えるからと取って置いたらしい。


 店長の店長としてのその格好が吉乃の緊張感を高める。


「よろしくお願いします」


「うむ」


 店長も緊張している。元々寡黙な方だがさっきから口を横一文字に結びほとんど喋らない。


 そんな店長が徐にしゃがみ足元に置いていた収納バッグから何かが入ったビニール袋とボトルを一本取り出した。


「これを使う」


「これって……」


 それは緑の葉の付いた生姜の束とジム化した廃工場で見つけたボトルだった。


「そうだ、これはこの地域で生産している生姜、それと桃が原料のワインだ」


 吉乃が試行錯誤しても辿り着けない理由がここにあった。


「でも、店で桃のワインなんて」


 生姜は確かに店で見たことがある、季節になると奥さんが紅生姜を漬けていることもあった。だけど果実酒を店で使っているなんて記憶は吉乃にはなかった。基本は仕込み済みのタレがあってそれで調理をしていたから吉乃が覚えていないのは仕方ないのだが、そもそも桃のワインの瓶が置いてあった記憶すらない。


「昔は秘伝のつもりでいたんだ」


 だからなるべく調理工程は見せずにいた。材料に関しても。

 店長は無表情を突然崩してニカッと笑った。ポージングにも似合いそうな筋肉スマイル。


「伝える前に店が潰れたがな」


 身を切る一言に吉乃は一瞬硬直したが、すぐにハッとして精一杯の愛想笑いで答えた。


 一応店長の名誉のために付け加えると店は経営難で潰れたわけではない。むしろ繁盛していた方だと思う。だからこそ店が無くなっていたのを見た時、吉乃は本当に驚いたのだが。


 店長達は自分達で決めて店を閉めた。老いと今後のこと、実家のご両親、息子さん家族、理由は様々あったようだが、その上で選んだ結果が今と言うだけの話だ。


 実は吉乃は再会した後に店長と奥さん二人に謝られていた。

 本当は店を閉める時、吉乃にも連絡するつもりだったらしい。それが閉店の準備が思ったよりも大変で、手が回らなくなってしまった。結局連絡は現状付き合いのあった範囲だけに留めたと言うことだった。だから吉乃から連絡があった時は驚き、そして嬉しかったそうだ。


 それともう一つ店長が店を閉める理由になったことがあった。


「このワインは友人が作っていたんだ」


 店長は桃のワインにそっと触れその理由を語り始めた。

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