第17話

(本当に何でこんなことに……)



 なってしまったのかと言うと、先ずはタイミングが悪かったと言えた。吉乃よしのたちが飯田はんだ家に辿り着く少し前からすでに原因の一つが始まっていたからだ。


 タマ子の言っていた通り、ここしばらく飯田家では揉め事が続いていたのだが、その揉め事とは主に目の前の二人による兄弟喧嘩であった。ちなみに話を聞いたところ太一たいちは二十代前半、銀次ぎんじは十代後半と言ったところで、特に銀次の方だが、若いだけあって喧嘩の威勢がいい。先程玄関の前で聞いた声もその一端で、吉乃たちは正に喧嘩の真っ最中にやって来たのだった。



(あの時すぐに帰れば良かった……)



 そのチャンスはあった。タマ子を引き渡して扉を閉めてしまえば良かったのだ。だけど吉乃は躊躇った。慣れない状況で初対面の人間を前に咄嗟に主導権を握れるほど彼女の思考の瞬発力は優れていない。せいぜい出来ることと言えば憧れの先輩を前に牛丼作りを提案することぐらいだ。なので、もしかしたら牛丼力と言う点では彼女は優れているのかもしれない。



(あんにゃろう、余計なことを言いやがって……)



 それを言ったのは紅緒べにおだった。最初から特に気負っていない彼はあの場において一番自由な発想ができた。だから普段と変わらない態度のまま空いた間を埋めるように気ままに発言をした。



(なにが「やあやあ、お宅の付喪神に依頼されて牛魔王松谷まつたに吉乃がサクッと問題解決に来ましたよ」だよ。初対面の人間に端的に要点伝えすぎだろ。知らないふりも出来なくなっただろうが)



 実際、紅緒の発言を受けて、飯田兄弟、太一と銀次の表情は変わった。それもそうだろう、お宅の付喪神、依頼、牛魔王、問題解決、なんて文言を並べられたら、当事者なら良くも悪くも興味を惹かれて当然だ。



(んでもって私もあれだ、馬鹿だ、やっぱり馬鹿だ)



 この付喪神にこの主ありと言ったところか。もちろん吉乃もしっかり墓穴を掘っていた。紅緒の発言の後、とにかく否定をすればよかったところを「え、あ、まあ、その、お力になれるか分かりませんがお話だけでも、えへへ、お聞きしますよ」なんて言ってしまっていた。タマ子の熱い視線が注がれていたから若干調子に乗ったと言うのもあるのだろう。



(さらに言わせてもらえばね、うん、飯田家ぇ、タマ子ぉ、問題がガチなんじゃあぁー……)



 現在飯田家が抱えている問題、それは端的に言えば相続問題だった。飯田商店は太一、銀次の叔父叔母が営んでいる八百屋なのだか、最近叔父が体を壊し営業が難しくなったのだそうだ。元々子供のいない叔父夫婦、このタイミングで俄に浮上した、と言うか、もともと潜在的にあったものが顕在化したのが、今後の経営をどうするか、そして店舗及びその土地をどうするかと言う問題であった。



(部外者の私がどうこう口出せる類の問題じゃないじゃないですかタマ子さぁん。私、専門家でもないですしぃ……)



 しかし実際のところすぐ目の前に相続問題があるわけではなかった。それは避けられないことではあるのだがまだ少し先の話、直近で起こっている問題、タマ子が解決してほしい問題とは、やはりこの二人の兄弟喧嘩であった。ただそれも今後店をどうするかと言うところに端を発しているようなので結局吉乃には荷が重かった。



(そりゃあこう言う状況にもなりますよ。事情を聞けば聞くほど私には口を出せないことだなって分かるし。私が手に負えなくて困ってるのだってお二人にきっと伝わってるし。て言うかご兄弟黙っちゃったじゃないですか。もー、あー、すみません本当にすみません。微妙に調子乗ってすみません)



 玄関での一幕の後、キッチンのテーブルに着いた五人。タマ子の促しもあり兄弟は吉乃に現在の飯田家の状況をざっと説明した。あくまで対外的に話せる範囲のことだけだったが、それを聞いた吉乃は場違い過ぎる自分に気付き速やかに俯いた。


 兄弟は話の途中でまた若干の口論を起こし吉乃への説明の後ムスッとして二人とも俯いた。


 さらに、三人がそれぞれ俯いたのを見て悲しくなったタマ子が俯いた。


 紅緒は話の内容も良く分からず、全員黙って静かになったので眠気を乗せた瞼の重さと共に俯いた。


 こうしてもれなく全員が俯いたのだった。



(あはは、あは……、帰りたい……)



 親族の問題に真剣に向き合う兄弟を前に、ふざけた経緯で覚悟も何もなくやって来た吉乃はいたたまれなくなっていた。けれど今彼女に行動の自由はない。物理的に拘束されているわけではないが、半ば自発的に他人の家に上がり込んだ負い目が心理的にそうさせていた。そのせいか彼女の脳は現実逃避を始める。



(帰りたいなあ……、うん、うん、帰りたい。お家に帰って、お風呂に入って、牛丼作って、食べて、寝るの。うん、他に何もしない。今日は早めに寝よう。早めに寝てさ、良い夢見て……ん? あれ? そうか、そうだ、逆だ、これが夢だ、寝て起きたらきっとこれは夢だったって言うパターンのやつだよこれ。そうだよそもそも付喪神とかおかしいじゃん。紅生姜? 付喪委員会? ちゃんちゃらおかしーよ。そうだ夢だ。起きたら現実。元通りだ。そうだな、起きたら私は、うん、大学生。明日はバイトの日だからお店に行くんだ。バイトは楽しくて、それに明日は先輩に会えるかもしれない日。頑張らなくちゃ、うふふ、来てくれたら嬉しいな。またいっぱい紅生姜かけるのかな。よし、そうとなったらとにかく今日のところは早く寝る。そのためにはすぐに帰らなくちゃ、よしよし帰ろう、帰るぞ、あよいしょっと……)



 現実逃避を利用しての勢い任せの逃亡を試みようとするも、のしかかる重い空気のせいかやっぱり吉乃の体は動かなかった。



(あれ、おかしいな、体が、あれ……)



 認識してしまった体はあの頃よりもちょっと苦労の染みた大人になった体だ。



(あれ、あれあれ、なんか昨日より重いと言うか、あれ、あ……、あはは……、ああ……、大学はもう……、それにお店ももう、あはは……、ああ、本当に、もう、帰りたい、もう……、あの頃に帰りたい……)



 そんな風に吉乃が帰昔願望とでも言うべき思いに縋ろうとした時、待ったをかけたのはこの場で唯一過去を持たない奴だった。



「ぬぁっ!」

 ガタンッ。



 それは本格的に寝落ちしそうになっていた紅緒が発した間抜けな声と、筋肉が痙攣したことで起きた音だったのだが、結果的にそれが膠着していた空気にひびを入れた。


 それぞれ緊張していた面々はしっかりとそれを感じ取った。

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