第13話

 吉乃よしのが振り返った後ろの席ではどうやら若い男女が痴話げんかをしていたようだった。状況としては、けんかの後半でヒートアップした女子が立ち上がり、俯く向かいの男子にグラスの水をかけたところと言う感じだろう。とは言えそれはあくまで吉乃の推測なので本当は何があったのかまでは分からない、が、後ろの席で立ち上がった女子が吉乃と一瞬目が合って気まずそうな顔をしたのは間違いない。だからなのか再び口を開いた女子の口調はさっきよりも落ち着いていた。ちなみに男子の方は暗い雰囲気で下を向いたままで水もかかっていないので何が起きたのかすら気が付いていないようだった。


「と、とにかく、そんなの違う、ハンダ君は優しさのつもりで言ってるのかも知れないけど、それは的外れだよ」


 的を外した本人が言った。自分がやってしまった事に発言が引っ張られているのか、それとも似た者同士のカップルと言うことなのか。

 何はともあれ彼女が続ける。


「も、もうちょっと、その、あ、頭冷やして、あの、考えて」


 どうしても吉乃が視界に入ってしまうようで、まさしく今頭が冷えている最中の人間を前にいまいち彼女の言葉には力が無かった。


 それから彼女は「帰る」と言い、そそくさとボックス席から店の出口へ向かった。吉乃の横を通る時に小さく「すんませんでした」とハンカチを置いて。


 店内に訪れたしばしの静寂のあと固まったままの吉乃に紅緒べにおが声をかける。


「よ、吉乃……」


 しかし彼女はその声にも、目の前に居る俯いたままの男子にも、興味ありげに布巾を持ってやって来た店員にも反応せずただ水の滴る顔で呆然としていた。






 どべえええ。

 強いて効果音を付けるとしたらそんな感じだろうか。曇り空の帰り道、傘を引きずりつつ吉乃は口から溜息とも違う何か良く分からない重たい気体を、まだ濡れている路上に吐き出した。


「そんなに落ち込むならあの場で何か言ってやれば良かったじゃんか」


 半歩後ろを歩く紅緒の言葉に吉乃が反応して振り返る。


「あのね、あんな落ち込んだ人間に声かけてあの状況を説明できる? いきなり顔面びしょ濡れの知らない女が後ろから話し掛けてくるのよ。あなたが被るはずだった水を私が被りまして彼女さんにハンカチをお借りしましたよって、何なのそれ、そんなの特殊詐欺かそうじゃなかったらもう新種の妖怪じゃない」


 妖怪水カムリハンカチババア。恐ろしい。


「ま、まあ、でもいつもの吉乃なら」


「いつものって何よ」


「あ、いや、何か言いそうなものなのになって」


「失礼ね、私は内弁慶よ。見ず知らずの人に失礼なこと言える訳ないじゃない」


「それは、そんな自分からハッキリと言うことじゃ……」


「もういい! もうこの話はいいの! 忘れる! あー、くそ、今日は牛丼大量に作ってストレス解消してやる!」


 結局妖怪じみている。


「え、あ……、あはは……、わーい……」


 これ以上刺激してこの妖怪兼牛魔王に更なる地獄に連れていかれたらたまったものではない、そう思った紅緒はそれ以上反論はしなかった。



 そんなこんなでやっと二人がアパートに辿り着いた時だった。


「何だあれ」


 紅緒が吉乃の部屋の玄関前に何かがあることに気が付いた。

 少し遅れて吉乃もそれを見つける。


「本当だ……、置き配かな? でも私宛に?」


 それは大きな段ボール箱で確かに吉乃の部屋の前に置かれていた。部屋を間違えていないのならば紅緒宛と言うのは考えにくいので吉乃宛なのだろう。


「実家からかしら?」


 思い当たるところと言えばそれしか無い。しかし、近付き確認するも伝票らしきものは見当たらない。それどころかよく見たら封も開いているようだった。


「え、何これ開いてる? 中身盗まれた?」


 吉乃が訝しむ。


「いやいや、そもそも不審物だろこれ、宛名もないし」


 段ボール箱を前に二人顔を見合わせる。


 どうする?

 どうするったってなあ。


 そんなニュアンスのアイコンタクトを交わすも実は結論は一つしか選べない。

 少々躊躇いつつも紅緒の見守る前で吉乃は段ボール箱の蓋に手を伸ばした。


 これが何にせよ部屋の前に置いたままにしておくわけにはいかない。本当に正しい選択は、自分では処理をせず不審物として警察に届ける、なのかも知れないが吉乃と警察は相性が悪い。吉乃は国家権力のおじさんに目を付けられている。だったらとにかく自分で確かめるしかない。案外こう言うのは大したものが入っていないのが相場で、どうせ結局隣人が間違って置いたとかそんなところなのだろうし。


 と言う訳で吉乃は少し腰を引きながら、一応ポケットの中の携帯電話を確認して、段ボール箱の蓋を片側だけ開けた。 


「……何か入ってる?」


 紅緒が聞く。


「んー、いや……」


 布、もしくは服のようなものが見えた。でもそれが何かは分からない。


「何だろこれ……?」


 とりあえずいきなり飛び出してくるようなものではなさそうだったので少し安心してもう片方の蓋も開けた。


 屈葬。


 認識するまでに少し時間はかかったが、そう言った形で人型の何かが詰め込まれていた。

 これには吉乃も驚きびくりと肩を揺らした、が声を上げる程ではなかった。

 しかし次の瞬間。


「あ、こ、こんにちは」


 屈葬されていた何か、いや女の子、が吉乃の方に顔を向け、やっと届くくらいのか細い声で確かにそう言った。


 流石に本物の人間とは思っていなかった吉乃は声に成らない声を上げ、紅緒の足元に後ろ手をつき尻餅をついた。

 その時どさくさに紛れ吉乃のポケットから携帯電話が零れ落ち振動で着信を告げた。


 段ボール箱から上体を起こす謎の女の子、それを見て唖然とする吉乃と紅緒、こちらの状況などお構いなしに鳴る携帯電話。ちなみにそのディスプレイには『神主』と表示されていたのだが、吉乃がそれに気が付くのは少しあとで、この瞬間彼女の目には段ボール箱の側面に書かれた『たまねぎ』の文字だけが何故か妙に鮮明に映っていたのだった。

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