第12話

 ガラス越しの雨の景色から視線を外し前を向くと紅緒が山盛りのナポリタンを頬張っていた。握りしめたフォークでいっぱいに口に詰め込んでいる。牛丼以外のものが食べられたのがよっぽど嬉しかったのか涙ぐんだ目で福福とした表情を浮かべながら。

 そんな光景に、渋々来たとは言え、何となく微笑ましい気持ちになって吉乃が呟く。


「慌てて食べると喉に詰まらせるよ」


「っんぐ!」


「あーもー、ほらー」


 差し出されたグラスの水を一気に飲み干し一息吐いてすぐにまた山盛りナポリタンに取り掛かる紅緒。どうやら脇目を振っている余裕は無いらしい。


 吉乃たちは先程の自販機の前から、近くにあるこの喫茶店に場所を移していた。紅緒の訴えを聞いた結果だ。


 落ち着いた雰囲気が流れている店内。雨の喫茶店は客もまばらだ。


 二人が居るのは窓際のボックス席。紅緒の前には刻一刻と崩されて行く山盛りナポリタン、吉乃の前ではコーヒーが柔らかく湯気を揺らしている。


 少々溜息混じりの息を吐くと吉乃は再び窓の方に視線を送った。


 窓ガラスの雨粒が流れては落ちてまた新しく出来てと緩やかに繰り返している。

 吉乃はそれを見るともなしに眺めながらもう一度小さな溜息を吐いた。


 今度の溜息の原因は紅緒ではない。目下試作中の牛丼だ。


 ここ数日様々な調理法を試してきた。可能な限りレシピを集め、足したり引いたり混ぜたりもした。しかしまだこれだと思えるものに出会えていなかった。何か違う、ちょっと違うの繰り返しでどうしても確信を得ることが出来ていなかった。


 確信……、確信、核心か……。私は、いつも、そうだな。


 牛丼の悩みはいつの間にか塗り替えられるように別の悩みに変わっていく。


 窓の向こうの雨の街にいつかの自分が立っている。


 まだ学生、大学時代の、あの頃の自分。バイト中、店のお使いに出た時のそんな自分が店で借りた黒い男物の傘を差してエプロン姿で立ち尽くしている。


 吉乃の視線の先には一本の赤い傘を差す男女。今より強く頻りに降る雨が彼女と男女の間に壁のようにあって、その雨の景色の中、ただ傘の赤色だけが鮮やかだった。紅生姜なんかよりも、ずっと。


「吉乃、どしたの?」


 紅緒の声に意識を引き戻された。


「ん、何でもない、大丈夫」


 気付けば紅緒の前の皿は空っぽになっていた。思いのほか長い間ボーッとしていたようだ。


 吉乃が紅緒に尋ねる。


「どう? 満足した?」


「んー、まあ、とりあえずは。これなら次の食事が牛丼だとしても何とかいけるかも知れない」


 そう言う紅緒の口の周りはナポリタンのトマトソースで真っ赤になっていた。

 吉乃はクスリと笑った。


「そうかい、それは良かったよ。ね、口の周り凄いよ、これで拭いて」


 彼女は紅緒にペーパーナプキンを渡すとまた窓の外を見た。しかしそこにはもうエプロン姿の自分は見当たらずしっとりと雨が降り続いているだけだった。冷めた牛丼は自然に元の温度に戻ることはない。夢や妄想も同じだろう。


 吉乃の口から自然と溜息が零れる。


「本当に大丈夫か? 何か溜息多いぞ」


「ん、そう? ごめんごめん、大丈夫だよ」


「もしかしてそれ、俺のせいか?」


 意外にも紅緒が少し気を遣った調子で言った。


「え? あ、違う違う、ほら、これだっていうレシピが中々見つからなくてさ、今度はどうしようかなって」


 本当の理由を誤魔化した吉乃だったが、それはそれで嘘ではない。さっきまで考えていた通り実際に悩んでいたし、正直なところ少し行き詰って来ていた。


「何だ牛丼のレシピの事か。てっきりもう俺の食費も賄えない程お金ないのかと思った」


「あー、とりあえずそれはまだ大丈夫よ、そこまで余裕はないけどね」


「いざとなったら俺が草取って来るからな」


「うん、大丈夫です。まだそこまで落ちぶれてないですから」


 またボヤ騒ぎになったりしたらたまったものではない。


 紅緒が調子を変えて言った。


「でもレシピかー、確かに早いとこ何とかして貰わないとな、このままニアミス牛丼食べさせられ続けるのも辛いしなあ」


「ニアミス牛丼て」


 腕を組み眉間に皺を寄せる紅緒を見て吉乃は苦笑した。


 あんたがそんなに悩まなくてもいいのに、そんな風に思うも、一緒に悩んでくれる存在に何となく気持ちが楽になる。


 ふと紅緒が顔を上げた。


「なあ、誰か知ってる人居ないのか?」


「え? 知ってる人?」


 一瞬意味が分からず聞き返してしまう。


「そうそうレシピ知ってる人」


 言い直した紅緒の言葉で合点が言って考える。


「あー、うーん……」


「そいつに教えて貰えればいいんじゃないか?」


 言われてみて思う。確かにその通りだ、きっとこのまま一人でレシピを考えるよりも早いし確実だ。だけど、レシピを知っている人と言われて思い当たる人物と言えば、


「そんなの、店長くらいしか……」


 店長、店長か……、今どうしているのだろうか、連絡先も分からないもんなあ……、んー……。


 吉乃が考えを巡らせているその時だった。


「もういい!」


 そんな女性の声が店内に響き渡った。

 驚き思わず吉乃も振り返ってしまった。その声がしたのがすぐ後ろの席だったからだ。すると次の瞬間、その吉乃の顔面に冷たい水が叩きつけられたのだった。

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