第11話
しっとりとした雨が街路樹や建物を濡らし路面には水溜まりを作っている。今日、街はつゆだく。
紫陽花の咲く道をビニール傘を差し歩く
彼女の表情は夢見がちな少女のようにぼんやりと、目の前の風景ではなく何か別のものを見ているようであった。
実際彼女は目の前の風景などほとんど意識していない。歩き慣れた道を習慣に従って足の出るままに進んでいただけ。では一体彼女は風景ではなく何を見ているのか。
白馬に乗った王子様が駆けて来る草原か、宝石を散りばめたように輝く星空か、優雅な舞踏会が開催される絢爛豪華な宮殿か、否、その中のどれでもない。彼女が頭の中で見ていたのはシミと匂いが染み付いた牛丼のレシピである。
この数日間で作ったレシピ。調べたレシピ。今日作る予定のレシピ。牛肉と玉葱、醤油と砂糖とみりんと酒と隠し味。煮込まれた牛肉とご飯のマリアージュ。牛丼。もちろんエコバックの中は牛丼の材料である。
そんな吉乃だったが目の前に障害物が現れて不意に足を止めた。
意識を現実に戻した彼女が見たその障害物は人の形をしていて、尻をこちらに向け傘を差したまましゃがんで何かをしている。どうやら目の前にある自動販売機を漁っているようで数台ある販売機の釣銭口を順番に開け、器用に濡れないように地面を這って進んでは一台ずつ機械の下を覗き込んでいた。しかも差している半透明のビニール傘は半分壊れて骨が折れひしゃげていて、みすぼらしいその様はまさにホームがレスの方のようであった。
顔をしかめ、なるべく関わらないようにと、その不審人物を避けて通ろうとした吉乃だったが、半透明の傘に透けて見える色に気が付き再び立ち止まった。最近よく覚える既視感が吉乃の足を止め、ついでに頭を重くしたのだ。
「……ちょっと、何してるのよ」
吉乃の呼び掛けに反応して傘の中の人物も動きを止める。そしてそこから声が聞こえて来る。
「出たな牛魔王」
声変わり前の少年の声だった。窺うように僅かに動いた傘の中からは何やら強烈な視線が吉乃に向けられていた。じっとりと疑念が籠った視線だ。視線は吉乃の足元から全身を巡り、最終的に彼女の提げているエコバックに向かいカウカウミートくんの視線とかち合った。
「何よ」
もちろんそう声を出したのはカウカウミートくんではない。吉乃だ。
「今日の飯は何だ?」
ぶっきら棒にそう聞く声。そこには何かを期待するような、例えば自分の大好物が答えとして聞けるのではないかと待っているような、そんな可愛らしさは微塵も無かった。どちらかと言えば面白くない答えを知っている上で、それでもあえて確認のために聞いたと言った感じだった。
「牛丼だけど」
決まりきったその答えが吉乃の口から発せられると、少年の持つ傘が俯いた感じに少し傾きカタカタと小刻みに震え始めた。
「ふ、ふふ、ふふふ……」
不穏な気配を纏った笑い声が傘の中から漏れ聞こえてくる。
吉乃が少したじろぐ。
「何なのよ」
彼女の呟きを合図にガバッと壊れた傘を投げ出して立ち上がったのはピンク色の髪の少年。
彼は立ち上がった勢いのまま捲し立てた。
「狂ってる! 狂ってるよ! 牛丼牛丼牛丼、毎日牛丼! 朝食も昼食も夕食もおやつも夜食も牛丼! え? あれ? ちょっと待って五食? 一日五食!? 五食牛丼!? よく平気な顔して『牛丼だけど』なんて言えるよな! こっちは牛丼で溺れ死にそうだよ! 成長期に必要な栄養とメニューのバランスを少しは考えろよ! このままだと栄養素のレーダーチャートが牛丼分で尖がり過ぎて天国まで突き抜けるよ!」
吉乃は米屋と再会して以来十数食以上連続で牛丼を食べていた。つまり毎食牛丼、全食事牛丼だ。
そしてそれは吉乃と生活を共にしているこの少年、
そんな彼に対してほんの少しだけ眉を寄せた吉乃。
「嫌なら食べなければいいじゃない」
あまり普段と変わらない声色であっさりと言う。二人の温度差は激しい。
「うわあ! 他に食べられるものが無いんだよ! お金がないんだよ! だからこんなことしてんだよ! 子供が毎食自分で食事を確保出来ると思うなよ! それに毎回二食分作ってるくせに何言ってんだよ! お腹減ってるし捨てるの勿体ないから食べちゃうだろうが!」
「いやあ、レシピが大体二食分の分量だからさ、作り易くて。それに感想聞きたいじゃん」
「か、感想聞きたいじゃんって……」
「だって、ほら、美味しい牛丼作るためには人の意見も取り入れた方がいいかなあって思ってさ」
へへ、私、頑張ってるよ。そんなニュアンス。
それを聞いて紅緒は空を仰いだ。映すのは雨雲。そんな目には涙が溢れて今にも零れ落ちそうだった。
「あああああぁ……、おかしいよぉ、クレイジーだよぉ、サイコパスだよぉ、完全に牛魔王だよぉ、他のものがぁ、牛丼じゃない他のものが食べたいよぉ。カレー、ラーメン、焼きそばぁー……」
嘆きと共についに少年の目から大粒の涙が零れ落ちた。
「えええええ、ちょ、ちょっと泣かないでよ。それにこんな、ほら、雨も降ってるしそれじゃ濡れるから。もう、ほら紅緒、傘持って」
このままつゆだくの路上に少年を放っておくわけにもいかない。
自分の所業をいまいち理解していない牛魔王吉乃は仕方ないと言った様子で溜息を吐いた。
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