第10話

吉乃よしの!」


 紅緒べにおの声で我に返った。完全に意識が何処かに行っていたようだ。目の前では今まさに鍋が吹きこぼれた瞬間だった。


「わわわわわ!」


 慌てて火を止めるも遅く、コンロがジュウジュウと音を立て、吹きこぼれた煮汁の焦げた匂いが鼻を刺激した。ちなみに鍋の中身はスタンダードな牛丼の具、醤油ベースの甘辛いタレで煮込まれた牛肉と玉葱だ。


「大丈夫かよ?」


 隣の部屋に居たはずの紅緒がいつの間にか隣に来ていて心配そうにこちらを見ていた。


「あー、いやいや、はは、ごめんごめん、ちょっとボーっとしてたや」


 吉乃は家のキッチンで牛丼を作っていた。米屋と再会した帰り道、早速牛丼の材料を買って帰って来たのだ。家に着くなり取り掛かったのだが、調理の途中でつい昔のことを思い出してしまい、そのまま意識が過去に行ってしまう程、思い出に没頭してしまったのだった。


「あ、でも一応できたよ」


 鍋の中の具材には十分に火が通っている。焦げもちょっとしたアクセントと言うことでいいだろう。

 ちょうどその時炊飯器がメロディーを奏でる。


「いいタイミング。さて、ご飯も炊けたし、紅緒も食べる?」


「え、今? 夕食用じゃないのそれ」


 さっき外で牛丼を食べてからまだそう経ってはいない、次の食事には少し早い時間だった。


「うん。一応さっきの味覚えてるうちに比べてみたいなって」


「ああ、なるほど」


 納得出来なくはない。


「さすがにお腹いっぱいか」


「いや、まあ、全然食べれるけどさ、おやつみたいなもんだし」


「じゃあ食べてくれると助かるな、意見も聞きたいし」


 吉乃は存外謙虚な姿勢を見せた。下手に出られると紅緒も強く返せない。


「わかったよそこまで言うなら食うけど」


「ありがと、じゃあ、食べよっか」


 と言う訳で早速二人で牛丼試作第一号の実食となった。






 食卓も兼ねているコタツ机に丼を二つ並べる。中身は牛丼試作第一号。参考にしたのは帰りに調べた牛肉と玉葱だけの非常にシンプルでオーソドックスなレシピ。


「二連続牛丼か」


 紅緒が丼を前に呟いた。


「ごめん。やっぱり嫌だった? 無理しなくてもいいのに」


「いや、まあ、一応焚きつけたのは俺だし、牛丼自体は嫌いじゃないからいいけど」


「ありがと。流石牛丼屋の紅生姜。とにかくさ、何にも分かんない手探り状態だけど作ってみなくちゃと思ってさ」


「そうだな。やって見なけりゃ始まらねーもんな」


「でしょ」


「んじゃあ、まあ早速」


「うん」


 吉乃と紅緒、座って手を合わせ、声も合わせて。


「いただきます」


 実食。


 丼にご飯、その上に煮込んだ牛肉と玉葱。紅生姜は買い忘れ。タレは醤油とみりんがベースの舌に良く馴染む味。ご飯に合うし箸も進む。でもさっき食べたものと比べると肉が少し硬いか。味の深みも足りないような。


「うん、美味いんじゃないか」


 と紅緒。


「うーん」


 一方吉乃は首を捻った。


「美味しいけどこれじゃない。やっぱりこれじゃないよなあ」


 とは言えこうなることは想定済み。今回試したのは基本の基本。これを基準にして目指す味に近付けていくのだから。


「まあ、そうだろうよ。これが最初なんだし、こっから段々良くしてけばいいんじゃね」


 紅緒が言った。


「そうだね……」


 何気ない紅緒の言葉だったけれど、吉乃はどこか安心感のようなものを覚えていた。


 自分のやろうとしていることは間違っていない。大丈夫、この道を進んでいいんだ。


 大げさではあったが、紅緒の言葉を切っ掛けにそんな肯定感が吉乃の背中にそっと触れ柔らかく押してくれたのだった。


 それから二人は箸を進めその日二食目の牛丼を食べ終えた。


 こうしてこの日から吉乃と紅緒の牛丼を中心とした、ちょっと変で、目まぐるしくもたぶん結局愛おしい、そんな日々が始まったのだった。






 吉乃が巻き込まれた落雷があった神社では、現在付喪委員会により、落雷とそれによって生じた火災による被害の復旧作業が行われていた。雷が直撃した御社は燃えてしまったこともあり全壊に近い状態で、一度解体、基礎部分からの建て直しを余儀なくされていた。


 そんな工事現場で最近不穏な噂が流れていた。

 なんでも、作業中、時折彷徨う黒いもやのような影が見えるとか。そして誰かがそれを見てしまった日には、昼になると作業員の弁当が無くなっているのだとか。

 とは言え弁当が無くなる以外に実害は無いので、作業員の間では何てことのない笑い話になっていたのだが。

 ちなみにその現象が初めて起こった時、御社の床下の部分から壊れた丼の破片が出て来たことから作業員の間でその現象は、丼の呪い、そんな風に呼ばれていた。

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