第9話

 吉乃よしのがまだ大学に入学して間もない頃の話。その頃の吉乃は今よりも引っ込み思案で良く言えば大人しく上品であった。と言うのも、彼女は中高一貫の女子高出身であり、それもその学校は中々にお嬢様学校であったからだ。


 そこで身に着けたはずの品性は脆くもすぐに崩れ去ってしまったのだが、そこでの環境による心理的影響は後々色濃く残った。周りが同性だけと言う環境であったためか、たまたま吉乃の周りがそうであったためか、彼女は色恋沙汰に非常に疎く無頓着なまま高校を卒業したのだった。


 大学に入って困ったのは同年代の男性との接し方だった。異性として男性を意識してしまうと言うよりかは、全く未知の存在としてどう接したらいいか分からないと言った感じだ。


 吉乃の中の男性像は小学校の男子で止まったまま更新されていなかった。昨日まで『うんこうんこ』と騒いではダンゴムシをぶつけてくるような存在だった男の子が、ほんのちょっと躓いただけで『大丈夫?』、少しでも重量感があるものを持っていたら『俺が持つよ』と声をかけてくる。そんな男の子の変化に正直なところ彼女は引いていた。


 そんな大学一年生のある日のこと、同じ授業を受けている男性の先輩から飲み会に誘われた。


 吉乃は一度だけサークルの新歓コンパに顔を出したことがあったのだが、その会のノリが合わず、すぐに退席した。直近でそんな経験がある彼女としてはどうしても参加する気になれず返事に困っていた。


 すると近くを通りかかった別の先輩が『無理に誘うなよ』と言ってくれた。その言葉をきっかけに彼女は誘いを断ることが出来たのだ。すぐにお礼をと思ったが、その時にはその先輩は姿を消していて、何も言うことは出来なかった。


 その日、吉乃は授業の後一人ふらふらと学校の近くの商店街を歩いていた。

 頭にあったのは夕食のこと。まだ慣れない大学生活と一人暮らし、どうにも疲れてしまい家事に回す余力が無い。あまり得意ではないが簡単に外食で済ませよう。彼女はそう思っていた。


 若者が好みそうな外観の店を何となく避けながら辿り着いたのは、近所のおじさんが好みそうなこじんまりとした渋い定食屋だった。

 看板には達筆な字で『牛丼一徹ぎゅうどんいってつ』と書かれている。戸が閉まっていて中は見えないが営業はしているようだ。


「ここ、で、いいかな」


 今日の夕食はこの店に決めた。そこに特別な理由は無いが、敢えて言うとしたら探し疲れたと言うのが一番の理由だ。


 吉乃は恐る恐る暖簾を潜った。

 これが吉乃にとっての人生初めての牛丼屋であった。


「いらっしゃい。お好きなテーブルへどうぞ」


 店内に入るとすぐに優しい女性の声が迎えてくれた。

 女性は何やら作業中のようで顔だけ出すとすぐに店の奥へと戻って行った。


 店内は至って普通の定食屋の風情だ。

 木製のテーブル席が大小合わせて十席と少し。壁には額縁に入れられた格言めいた言葉と付き合いのある業者に貰ったであろう社名入りのカレンダー、それと日本酒のポスターと手書きのおすすめメニュー。全体的に年季が入ってはいるものの、清潔に保たれていて、好感の持てる店だった。


 夕食には少々早い時間だからか店内は空いていてパッと見て空席の方が多い。

 吉乃は手近な席に着いた。

 テーブルに備え付けのメニューを手に取った時ふと視線を感じた。顔を上げると通路を挟んで正面の席に座っている男性と目が合った。知っている顔だった。


「あ」


「あれ、やっぱり君さっきの」


「……せ、先輩」


 そこに居たのは飲み会を断るきっかけをくれた先輩だった。

 そしてこれが吉乃が初めて彼のことを先輩と呼んだ瞬間でもあった。

 飲み会を断るきっかけをくれた先輩。それが米屋よねやだったのだ。


「はい、お待たせ。あら、お知り合い?」


 先程吉乃を迎えてくれた店員だった。米屋の注文した牛丼と吉乃のお冷を運んで来たのだ。ふくよかで健康そうな中年女性である。目尻の笑い皺が彼女の人柄を語っているようだった。


「ええ、同じ大学の後輩なんです」


 米屋は店員と懇意にしているようで、二人の間には客と店員以上の親し気な雰囲気があった。


「あらそうなの、よろしくねー」


 吉乃は軽く会釈をした。

 その後、吉乃も牛丼を注文し女性店員はそれを受けるとまた店の奥へと戻って行った。米屋とも挨拶以外に特に会話は無かった。


 吉乃は牛丼を待っている間、特に意識していた訳ではないが見るともなしに米屋の方を見ていた。米屋がそれに気が付いて気にする素振りを見せることもなかったが。


 彼は早速牛丼に取り掛かっていた。まず牛丼に紅生姜をのっける。テーブルに備え付けの容器に入った紅生姜だ。それを容器に添えられた小さなトングで掴んで牛丼にのっけるのだ。一回二回、まだのっける。三回四回、まだ終わらない。五回六回、米屋はこれでもかと紅生姜をのっける。もう牛丼の具が紅生姜で埋まって見えなくなっている。それでもまだのっける。最終的には丼の上にピンク色の小山が出来上がっていた。


 そしてそれを米屋は美味そうに食べるのだ。


 丼に箸を刺し、掬うように具を持ち上げる。その箸の上には絶対に紅生姜しかのっていないのだが、傍から見たら牛丼ではなく紅生姜を食べているようにしか見えないのだが、しかし米屋はこれこそ牛丼ですと言わんばかりに、実に美味そうにそれを食べるのだ。


 ……あ、私知ってる。


 そんな米屋の姿は、吉乃に何故か小学生男子を想起させた。


 男子はいつも大盛にする。食べきれないのに大盛にする。馬鹿みたいに。大盛にし過ぎた挙句結局食べきれないで怒られる。


 そんな男子のことを思い出した。いつかのあの、森田君カレー激盛り事件。

 吉乃の中でミッシングリンクが埋まった。米屋は男子の成長した姿として吉乃に自然と受け入れられたのだ。


 米屋がまた牛丼を箸で掬うように持ち上げた。箸の上には紅生姜が多めの小さな牛丼。それを口の前まで運び、大口を開け迎える。牛丼を口に入れ、満足気に口を閉じる。そして彼は満面の笑みにも似た幸せそうな表情を浮かべ咀嚼する。


 その時、箸に付いていた牛肉の欠片が零れ落ちた。牛肉の欠片は、まだ中身の残った丼の中に落ちていった。それは一瞬の出来事。だけど吉乃の目にはひどくゆっくりと映っていた。


 牛肉はまるで空を舞う花弁のようにゆっくりと、回り、踊り、惑うように、だけど確実に柔らかなご飯の上へと、紅生姜で赤く、赤く染まったご飯の上へと落ちていったのだった。


 いつの間にか米屋の姿に見惚れていた吉乃。そのことに彼女自身が気が付いたのは注文した牛丼が運ばれて来た時だった。店員に声をかけられるまで自分が食事に来たことなど忘れていた。


「米屋君凄いでしょう。私も初めて見た時はびっくりしちゃったわよ。今ではすっかり慣れちゃったけどねえ」


 そう言ったのは店の奥さん。

 吉乃は彼女の言葉から米屋と言う名前をしっかりと聞き取った。


 先輩。米屋。米屋先輩。


 その名前が吉乃の頭に強く印象付けられた。


 それから米屋は早々に牛丼を食べ終えると支払いを済ませ、一言吉乃に「お先に」と笑いかけて店を出て行った。あんなに紅生姜で山盛りだった丼はしっかりと空っぽになっていた。


 米屋が去った後、吉乃はぼんやりとしたまま初めて牛丼を口に運んだ。


「美味しい……」


 初めて外で食べた牛丼。特に印象に残ったのはその奥深くに感じる優しい甘さだった。


 炊き立てのご飯から昇る湯気のようにふわふわと上気した頭のまま食事を終えた吉乃。会計を終え外に出ると店のガラスにアルバイト募集のチラシが貼ってあることに気が付いた。

 彼女はそのチラシをジッと見つめた。


『牛丼の好きな方お待ちしております』


 そんな短い文句の、一つの単語が妙に気になる。


「好き……」


 数日後、吉乃は『牛丼一徹』でアルバイトを始めたのだった。

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