第8話

 米屋よねやが丼の底に残った紅生姜を口に運び箸を置く。それを最後に三人の食事の時間は終わった。米屋はもちろん、吉乃よしの紅緒べにおの丼も空になっている。三人とも米粒一つ残さない完食っぷりだった。


「ごちそうさま」

「ごちそうさまです」

「ご、ごちそうさま……」


 単純に満足気な二人と違い紅緒だけ少し様子がおかしい。今牛丼を食べたばかりなのに何故かげっそりとしているようだった。


「ほら、特盛なんて無理して食べるから」


「いや、そうじゃ、なくて……」


 吉乃の言葉を紅緒は弱々しく否定する。

 そんな二人の様子に米屋が微笑んだ。


「ちょっと食べ過ぎたね、ゆっくり食休みしてこうよ」


「そう言うことじゃ、ねえ……」

「すみません」


 しかし紅緒の抗議は米屋がお茶のお替りを頼んだ声に重なって届かなかった。それから間も無く店員が持って来たお茶を啜り改めて一息吐いた米屋が言った。


「美味しかった、美味しかったけど、でも、やっぱり違うんだよな。もう一徹いってつのあの味は食べられないのかあ。残念だ」


 吉乃は項垂れる紅緒を視界の隅に追いやり米屋に向き直って返事をする。


「そうですね」


「移転とか暖簾分けとかはしてないんだよね?」


「はい、そういう話は特に聞いたことないですね。私が辞めた後のことは分かりませんが」


「そっか。いっそ松谷まつたにが暖簾分けして貰ってたら良かったのにな」


「え、あ、いえ、私なんかそんな……」


「そうかな、松谷頑張ってたじゃん」


「え、あ、いえ……」


 俯いてしまった。照れ臭かった。何だか嬉しかった。見てくれていたんだ。そう思った。もう今からすると大分昔のことなのに、昨日のことのように、少し、涙が滲む。


「一徹の牛丼、食べたかったな」


 寂しげな笑みを浮かべて本当に残念そうに米屋は言う。

 吉乃はそんな彼の様子が引っ掛かった。


「あの、そ、そんなに食べたかったですか? 店の牛丼」


「ん?」


「あ、いえ、特に深い意味は無いんですけど、ただ、ちょっと気になったって言うか、先輩が、その、凄く残念そうだから」


 特別な牛丼であることは確かにそうなのだが、それでもただの牛丼だ、それ自体は珍しいものではない。

 吉乃の勘が囁いていた。きっと何か、もしかしたら何か理由があるんじゃないかと。


「んー、まあ、ちょっと色々あってさ」


 彼はそう言うと、意識してか無意識か指輪を触った。


 吉乃はその動きを見逃さなかった。実は彼女は食事の最中も米屋の指輪が気になってしょうがなかったのだ。だけれどその指輪の意味を彼に直接聞くことは出来なかった。偶然の再会によって彼女の胸に去来した淡い期待がそれを許さなかった。もしも指輪が左手の薬指に嵌められていたのならきっともっと簡単に聞けていたのだろう。


「そう、なんですか」


 返事をしたその時、突然吉乃は閃いた。まるで綺麗に生卵の殻が割れたように。牛肉の上に落ちたその中身は、牛丼を美味しくするトッピングか、はたまた悪魔のアイデアかは分からないが。


「あの、良かったら私が作りましょうか? 牛丼」


 頭でその閃きの良し悪しを考えるよりずっと早く口から言葉が出ていた。


「え、松谷、一徹の牛丼作れるの?」


 米屋の顔に喜びの光が射す。それは湯気の中から現れた炊き立ての艶やかなご飯のように眩しくて、その顔を見た吉乃にはもう止まることなど出来なかった。


「はい。とても暖簾分けなんてレベルでは無いんですけど、実は以前簡単にレシピを教えて貰ったことがあって。今手元にレシピは無いんですが、探せばすぐに出て来ると思うので。上手く再現できるかは分からないのですが、近いものなら私でも出来るはずです」


 気が付けば流れるように喋っていた。


「本当に! じゃあ、是非頼みたいな」


「はい! 任せて下さい!」


 吉乃の勢いは止まらず、アイデアと言う卵をかけた牛丼を飲み物のように流し込むと威勢良く丼を置いた。その中身はもう空っぽだ。


「先輩のために、美味しい牛丼、腕によりをかけて作ります!」


 鼻息荒く腕を振り上げた吉乃。

 その向こうで紅緒が依然虚ろな瞳でげっそりとしながらお茶を啜っていた。






 帰り道を歩く吉乃と紅緒、まだ夕焼けには早い時間、下校中の小学生たちがはしゃぎ歩いている。


 あのあと米屋とは一週間後にまた会う約束をして店の前で別れた。一週間後に会った際に吉乃の作った牛丼を渡すことにもなった。


 ここまで特に会話も無くほとんど無言で来た二人だったが、紅緒がやっと調子を取り戻したようで吉乃に話しかけた。


「吉乃、俺、あいつに、コメ屋に……」


 紅緒はそう言うと辛そうに言葉を吐いた。


「食い散らかされた気分だよ……!」


 しかし吉乃は何の反応も見せずに黙って俯きがちに歩き続けている。

 紅緒はそんな様子に気が付いていないようで変わらず話し続けた。


「あんなに、あんなにさ、あんなに紅生姜かけるなんてあり得るか? 山みたいになってたぞ、あれじゃあ牛丼じゃなくて紅生姜丼じゃんか! 吉乃、俺、紅生姜として、俺……、吉乃?」


 紅緒が吉乃の無反応を気にした時、それを見計らったように彼女が顔を上げる、ずっと思慮の淵に沈んでいたその瞳は潤んでいた。


「どどどどどどうしよう。紅緒!」


 とんでもなく声が震えている。いつもの紅緒に対する態度が嘘のように、藁にも縋りたい、紅生姜でも構わない、そんな感じだった。


「な、何だよ急に」


 紅緒も初めて見る吉乃に狼狽えているようだ。


「わ、私、嘘、吐いちゃった」


「嘘ぉ?」


「先輩に嘘吐いちゃったよお……!」


 半泣きの吉乃、それを見て慌てる紅緒。近くを通った小学生が何事かと視線を送って来る。


「ちょ、待て、落ち着け吉乃、大人だろ、恥ず、ちょ、え、う、嘘? 嘘って何が?」


 少し黙った後、吉乃がぽつりと言った。


「本当は知らないの。一徹の牛丼のレシピ」


「は、はあ?」


「どうしよう」


「ど、どうしようったって、じゃあ、謝ってなかったことにすればいいじゃん。連絡先は知ってるんだろ?」


「駄目、それは嫌! せっかく先輩と約束したんだから」


 吉乃はやけにはっきりと紅緒の提案を却下する。


「えー、じゃあ作るしかないじゃんか」


「で、でも、作り方知らないし」


「じゃあどうすりゃいいのさ」


「だからどうしようって」


 紅緒は煮え切らない吉乃を前についに溜息を吐く。何だかいつもと立場が逆転したようだった。


「だったらもうやるしかないじゃん。約束破りたくないんだろ?」


「それは、そうだけど」


 紅緒の言う通り、約束は絶対に守りたい。私の提案であんなに嬉しそうな顔を見せてくれたのだ。それを雲らせたくない。


「吉乃、コメ屋のこと好きなんだろ?」


 紅緒が唐突に言った。


「え? な、何? 何で? 何でそれを」


「何でってお前……、まあ、見てればわかるって言うか。駄々洩れって言うか。それに行きの電車乗ってた時に話してたのコメ屋のことだろ? 吉乃が牛丼屋で、先輩がどうのこうのってやつ」


 それはしつこい紅緒に音を上げて行きがけに話した暇つぶしの思い出話。


「あ、あう」


 結果的にだが彼女は道中せっせと墓穴を掘っていたのだ。


「とにかく、だったらちゃんと約束守ればいいじゃん。作ればいいんだよ牛丼。味は覚えてるんだろ? その味が再現できればいいんだろ? 時間はあるんだし」


「……うん」


 いじいじしながらも吉乃はやっと頷いた。

 そんな彼女を見て紅緒は改めて深く溜息を吐いたのだった。

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