第4話

 その日、吉乃よしのは酔っていた。酔っていたと言っても酒ではない、自分に、である。勢いで退職宣言、それから実際に退職をしたことで吉乃の中でロックな魂と反社会思想が最大限に高まっていたのだ。


 結果、吉乃はノンアルコール飲料を片手に夜の街を闊歩した。


 覚束ない足取りと虚ろな瞳、明日をも知れない自分の運命さだめを抱えて彷徨うどこか影のある一人の女。


 それらは全く吉乃の頭の中の自分像であったのだが、その自分像の影響か彼女は普段より少々気が大きくなっていて気分も擦れていた。そのせいなのだろうが吉乃は何故かポイ捨てをしてみようと思った。それが吉乃の、意外とお嬢様学校出身の吉乃の、等身大の反社会行動だった。


 吉乃は軽く深呼吸をすると高鳴る鼓動を感じながら、おずおずとアンダースローで空になった飲料の缶を路地に放り投げた。


 遠慮がちに弧を描き宙を舞った缶がアスファルトに衝突し乾いた音を響かせる。カランカランと。その音が精一杯の悪い顔をする吉乃の耳に届いた直後、彼女は声を掛けられた。


「ちょっとお姉さん」


 全身の血液が心臓にギュンと集まった気がした。

 血の気の引いた顔の吉乃が振り返るとそこには警官のおじさんが立っていた。


「駄目でしょポイ捨てしちゃあ」


 吉乃の反社会行動はバッチリ国家権力に目撃されていたのだ。


「え、あ、はい、あ、す、すすす、すみません、あの、えと」


「あれ? お姉さんもしかして酔ってる? 感心しないなあ、若い女性が一人で飲み歩きなんて」


「あ、いえ、酔ってる訳じゃあ……」


「えー、でも今捨てたのお酒の缶でしょ? 見てたよ」


「あ、いえ、違くて、その、ノ、ノンアルコールと言うか、ソフトドリンクと言うか……」


「え? ふらついてたじゃない。何で誤魔化すの? 何かやましいことでもあるの?」


「やま……、あ、いえ、な、無いです、お酒です、あれお酒です、すみません」


「やっぱりぃ」


 後に吉乃は何気ない瞬間にこの場面を思い出し冤罪の怖さを思うのだが、それは本筋とは全然関係のないお話。


 吉乃に声をかけた警察のおじさんは若い女性に対して何か胸に一物があったようで、ここぞとばかりにそれをぶつけて来た。


 結局吉乃は道端で小一時間おじさんの説教を受けた後、一度投げ捨てた缶を半べそで回収し、近くのごみ箱に捨て、ポイ捨てなんか二度としないと言う誓いと共に帰路に着いた。


 消耗しきった吉乃が家に着くと玄関の前に蹲っている人影があった。それが紅緒べにおだ。紅緒が吉乃の家の前に蹲っていたのだ。


 吉乃が訝し気に声をかけようとすると、彼女に気が付いた紅緒がゆっくりと顔を上げ、そしてこう言った。


「やっと見つけた」


 それから紅緒は安心したように笑うとそのままそこにくずおれてしまった。


 慌てた吉乃。ただでさえ突飛な状況で焦ってしまうのに、加えてその時の彼女の判断力は警察のおじさんのせいでおかしくなっていた。


 な、何? どういう状況これ。どどど、どうしよう。け、警察? 警察、警察か。だ、駄目だ。駄目だ駄目だ、あそこにはおじさんがいる。きゅ、救急車? いやいや駄目だ、結局警察にも連絡が行っておじさんが来る。おじさんは駄目だ。とにかくおじさんにつながる行動は危険だ。え? え? じゃあどうしよう。えーと……。


「やっと見つけた」


 脳裏に紅緒の声と笑顔がリフレインする。

 現実逃避気味の思考も手伝って吉乃はそれで盛大に勘違いをした。


 あれ? 知り合い? 実は知り合い? もしかして親戚?


 もちろん知り合いと言う訳では無いし親戚でもない。しかし既視感が吉乃のその説を後押しする。


 そう言えばこのピンク色見たことがある気がする。ピンク色の髪の子なんてそんなに居ないし見覚えがあるって言うことは……、私が忘れているだけなのかも知れない。


 その勘違いが吉乃の良心を刺激し『知らない人を家に入れてはいけません』そんなハードルを越えさせ、『なんなら誘拐になる状況』と言うことにも気付かせなかった。


「と、とにかく中に」


 こうして吉乃は紅緒を家に入れたのだった。


 吉乃の幸運としては紅緒が本当に何の害もない存在であったこと。不運としては、その日から紅緒が吉乃の家に居付いてしまったことであった。結果として不運の方が少々重かった。




 ざっくり思い返した吉乃はキッチンに向かう紅緒の背中に向かって呟いた。


「あんた一体何なのよ」


 その呟きはしっかり聞こえていたようで、一度キッチンに消えた紅緒が顔を出して言った。


「紅生姜だって言ってるじゃんか」


 吉乃の呟きの答えは実はもう出ていた。


 紅緒の紅は紅生姜の紅だ。赤い瞳は生姜を漬ける梅酢の赤。ピンクの髪は紅生姜本体のピンク色だ。


 その答えは紅緒と出会った翌朝に歩いてやって来たのだった。吉乃を探し訪ねて来た人が居たのだ。それはちょうど素面に戻った彼女が昨晩の行動を猛烈に後悔している時だった。




 紅緒を部屋に連れ込んだ翌朝早くインターフォンが鳴った。


「吉乃、誰か来たぞ、吉乃ってば」


 紅緒がそう呼びかけるも吉乃の反応は無かった。

 紅緒は冷蔵庫を漁り朝食を一人取っていたのだが、一方吉乃は目を覚ましてから今まで、部屋の隅で固まりながらその様子を眺めていただけだった。


 そんな吉乃の頭には浮かぶ大量の疑問符。その一つをもぎ取り、彼女の中の小っちゃい吉乃が自分自身を殴りつけている。


『馬鹿だろ! お前馬鹿だろ! マジもんの馬鹿だろ!』


 酒は飲んでいないのに二日酔いのように頭が痛い。記憶は一応はっきりしている。昨晩は特に何もなかった。あいつはコップ一杯の水を飲んで、眠いと言ってキッチンの床に横になってそのまま眠ってしまった。寝顔が素直な少年で、それを見てちょっとほっこりして、まあいいかなんて、タオルケットをかけて、私は私で疲れていたせいもありそれ以上何もしないで考えることも放棄してベッドに身を投げた。我ながら馬鹿である。


 そんな折、突然の訪問者だ。

 正直吉乃は警察が来たのだと思った。


 しかし結局、動かない吉乃に変わって紅緒が開けたドアの前に居たのは、警察のおじさんではなく袴姿の男性だった。まあ、こちらもおじさんだったのだが。


 彼は紅緒を見るなり驚いた表情を顔に浮かべ、口を開きかけ、部屋の奥の吉乃に気が付き、慌てた様子で深く頭を下げた。


 彼の正体は吉乃が落雷に巻き込まれた神社の神主だった。

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