第3話
落雷から凡そ一ヶ月。
幸い
しかしそんな吉乃だったが身の回りには落雷の影響から図らずも様々な変化が生じていた。
まず一つ目は伸ばしっぱなしだった髪の毛を切ったこと。切った理由は失恋とか心機一転とかそう言う類のものではなく紛れもなく落雷の影響。そう、焦げたのだ。雷の熱で毛先が焦げたのだ。
結果、背中まで伸びていた髪は首に掛かる程度の長さまで短くなってボリュームも減った。奇しくもこの髪型は、数年前、吉乃が大学生であった頃の髪型と同じであった。そのせいで鏡を見るたびに当時の自分を思い出してしまい、吉乃としては少し複雑な心境であった。
次に二つ目。仕事を辞めた。実はこれは前々から考えていたことでもあった。元々不満たらたらでやっていた仕事だ。辞めたいと思いながらも、なかなか決心が付かず、ずるずると続けていた面もあったのだ。
そんな時にあの落雷に遭った。
私、雷に打たれたんだよな。
なんて思うと妙に踏ん切りが着いたのだ。怪我の功名と言って良いのかはわからないが、雷に激しく背中を押されたかたちだった。
それと実際に仕事を辞める切っ掛けとしては雷に加えもう一つ決定打があった。それは落雷の後、職場に連絡した際に上司から貰った有り難い言葉だった。
「雷に打たれたあ!? そんな非常識な理由で仕事に穴をあけるな!」
別に急いで辞めるつもりはなかったのだが、お言葉を頂いた後、返す刀で仕事を辞めることを伝えた。ダラダラしてしまうと、また悩み始めてしまう可能性もあったので今は寧ろ感謝をしている。とは吉乃が現在しみじみと思っていることだ。
そんな訳で、吉乃はこうして部屋で座卓に向かって求人誌を捲っているのだった。
しかしその実、情報は全く頭に入っていなかった。本当にただ求人誌を眺めているだけだ。
どうやら良くも悪くも仕事によって維持されていた緊張感だとかやる気みたいなものが、穴の開いた風船の空気みたいに、シューシューと抜けて行ってしまったようだった。萎んだ風船じゃ風に乗って何処かに飛んでいくことは出来ない。
とりあえず次の仕事が見つかるまでは貯金を切り崩して生活していくしかないのだけれど、幸い吉乃には大した趣味はなく、無駄遣いもして来なかったのでそこそこの貯蓄があった。これもまた彼女がいまいちやる気になれない理由の一つではあったのだが、まあ、とにかくしばらくは大丈夫なのだ。
「はあ」
吉乃は手を止めて溜息を吐いた。やはりどうにもやる気は出ない。仕事のことを考えるのを頭が拒んでいるようだった。ついに彼女は求人誌を見るのを諦めてそのまま後方へと倒れ込んだ。
フローリングの床が体を受け止める。ひんやりと気持ちが良い。彼女の目に映るのはまだ新しく綺麗な天井。
リノベーション済み、築30年以上、木造アパート。一人暮らしを始めてからずっと住んでいる部屋。大きな家具はベッド、本棚、冬はコタツになるこの机程度。テレビは無くパソコンが一台。最低限の化粧道具。クローゼットとその中の服。それと少し広めのキッチン、風呂、トイレ。あ、キッチンには冷蔵庫もあるか。まあ、でもこんなところか。これが今の私の全部か。
吉乃は目を瞑り自分の部屋の細部に至るまで思いを馳せた。
そんな吉乃の頭に無遠慮な音と振動が響く。
ガチャ、バタン、ドス、ドス、ビタビタビタビタ――。
玄関を開け誰かが上がり込んで来たような音だった。しかし吉乃はそれを少しも気にする様子を見せない。と言うか意識的に聞こえていないことにしていた。そして心で綴り始めるマイポエム。
私はなんてちっぽけな存在なんだ。
吉乃は目を開け天井に手を伸ばす。それから広げた手の甲を眺める。
ガチャ、ガタガタ、バタン。
今度の音は冷蔵庫を開け閉めする音だろうか。キッチンの隅から聞こえた。
だから、こんなちっぽけな私の悩みなんて、この宇宙の広さからしたら本当に……。
ビタビタビタビタビタ。
近付いてきた音と振動が頭の上で止まる。吉乃は反射的に目を閉じた。そして続ける。
だから本当に私の悩みなんてちっぽけで……。
「吉乃吉乃、なあ吉乃ー」
ちっぽけな吉乃のちっぽけな自分ポエムに遠慮のない声が乱入する。しかしそれでも彼女は目を瞑りその声を無視して無理やりにでも自分の思慮の中に沈んで行こうとした。
えーと、だから、どこまで行ったっけ、えー、だから、とにかく私はちっぽけだから、うん、えーと、ちっぽけだけど些細な幸せを……。
「なあ吉乃!」
けれど声は沈んでいく吉乃の意識の胸倉を捕まえて放そうとしなかった。それどころか強引に現実へ引き上げる。
「冷蔵庫何にもないよ!」
仕方なしに吉乃が目を半開くと上から覗き込んでいる顔があった。少年の無邪気な顔だ。善悪を知らない動物、或いは小さな子供のような印象すらある。どことなく吉乃に似ているが大きく違う点もある。一つは彼の目。彼の目は赤い。黒目の部分が澄んだ赤色をしている。もう一つは髪。彼の髪は鮮やかなピンク色をしている。それは吉乃が見るといつもとある既視感を覚えてしまう色だった。
目をだるそうに開いただけで返事のない吉乃に少年はもう一度言った。
「冷蔵庫何にもないって!」
「氷でも齧ってなさいよ」
少年に比べ吉乃のテンションは低い。極弱火である。
「うわ、鬼嫁かよ」
「誰が?」
吉乃の声音に少年が少し怯む。
「ちぇ、しょうがないから取って来た草でも食うか」
「ちょっと待って、取ってきた草?」
キッチンに戻ろうとした少年を吉乃が止める。
「うん、道に生えてた草とキノコ。吉乃の分もあるよ」
「え、うん、気持ちは、うん、嬉しい? けどやめときなさい」
「え、なんで?」
「そうね、現代の文明人はあまり道に生えてるものを食べないの」
「でもさ、道草食うって」
「うん、道草を食っていいのはキチンとした知識を持っている有識者の方か、素敵な知恵袋を所持しているお祖母ちゃん、それかど暇人くらいなの。生憎ここにはどちら様もいないわ」
「暇人なら要るじゃん。それにババア……」
「それ以上言うと警察を呼ぶことになるわ、因みに被害者はあんたよ」
「……怖っ」
落雷を経てからの様々な変化。その三つ目にして吉乃にとっての最大の変化。それはこいつの存在だった。
名前は
そんな紅緒が吉乃と一緒に生活することになったのだ。
では、どうしてそうなったのか。それは吉乃が退職した日に遡る。
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