第2話
検索の結果を基に歩いて、
境内は建物の屋根よりも高い木々に囲まれていて昼なのに薄暗い。大通りから外れていることもあり神社の前の人通りは少なく、境内にも吉乃以外には誰もいない。
吉乃は以前近くを通ったときにこの場所を記憶していた。もちろん昼食を食べる場所候補としてだ。それが今日こうして役に立ったのだった。
吉乃は参道脇の古びたベンチに腰を下ろした。それから改めて境内とすぐ傍の御社を見上げて、若干の緊張感から一人言葉を零す。
「建物はまだ新しそうなんだよなぁ」
敷地内の薄ら寂れた雰囲気の割に建物の建材は綺麗でしっかりとしている。ちゃんと管理はされている場所のようだった。そう言えば境内が荒れている様子もない。だとしたら表の大きな神社の一部なのかも知れない。
「えーと、すみません、少し場所をお借りします」
神社で昼食を食べることに若干の抵抗はあったものの、これ以上他の場所を探している時間もないためこうして吉乃は神社飯を決めた。
それにここの雰囲気嫌いじゃないし。
とは言うものの罰当たりかもしれないなんて思い、念のため吉乃は建物に向け手を合わせた。
南無南無。正直作法は知らないけど。でも気持ちが大事だし。
自己弁護も済んだので吉乃は早速膝の上に牛丼を乗せた。まだ残っている微かな温もりが膝に伝う。温かい。それから蓋を開ける。立ち上った牛丼の香りが神社の空気に混ざっていく。
「はあ」
温もりに誘われてか溜息が出てしまった。別に牛丼に対して出た感嘆の溜息と言う訳ではない。今の状況、現在の自分に対しての「はあ」だ。
このままでいいとは思わない。だけど惰性のように変わらない日々を過ごしている。
思わず仰ぎ見た木々の隙間の空には黒い雲がかかっていてさらに気分が落ち込んだ。
「早く食べよう」
この上雨に降られたりしたら自分の精神状態を正常に保っていられるかわからない。
割り箸を割りいよいよ牛丼を食べようとしたところでビニール袋の中に残っている小袋に気が付いた。
「あ、そう言えば紅生姜貰ってきたんだった」
吉乃はビニール袋から紅生姜の小袋を取り出した。それを顔の前に持って来て暫し眺める。
四角い小袋に入った少量の紅生姜。何の変哲もないありふれた紅生姜。ほんの気まぐれで貰ってきた、久しぶりの紅生姜。
吉乃は懐かしそうに目を細め微笑んだ。
「こんなんじゃ足りないんだろうなぁ」
吉乃は紅生姜が嫌いだ。その理由には紅生姜の甘酢のように甘酸っぱい記憶が紐づいている。
ぼんやりとしている途中、高い空のどこかで雷雲が音を立てたのを聞いた気がした。
「いかんいかん、早くしなくちゃ」
だけれど今はそんな思い出に浸っている場合じゃない。早く牛丼を食べて仕事に戻るのだ。つまらない仕事だけど、せめて今日はこれ以上怒られてなるものか。
吉乃はせっかく貰ってきたからと紅生姜を牛丼に添えて食べようと思った。彼女は別に紅生姜自体の味が嫌いな訳でも苦手で食べられないと言う訳でもないのだ。
と言う訳で早速吉乃は紅生姜の小袋を開けようとした。
「よいしょ」
しかしこれが開かない。
小袋を裂こうと指先で端っこをねじる。
だけどこれがなかなか開かない。
「あれ? ん?」
方向を変えてみる。縦、横、斜め。
全然開かない。
「んあ、くそ……」
切込みが入っている部分を探すもそれすらない。よく見ると一辺に小さな字で『こちら側からならどこからでも切れます』と書いてあった。
けれど切れない。
「んんーーー!」
紅生姜の小袋を開けるために指先にあらん限りの力を込める。
それでも開かない。僅かに歪む程度で切込み一つ入らない。
「な、ん、で、よ……!」
一人紅生姜のように顔を真っ赤にして半ば意地になって力を込める。
でも開かない。
「私、に、食べられるのが、そんなに、嫌なの!?」
とにかく開かない。
「こうなったら、絶対に、食べてやる、ん、だからぁあああ!」
それでも絶対に開かない。
「んぬ、ぬぁあああ……!」
込める力に比例して唸り声も大きくなる。そのせいで吉乃の耳に周りの音がすっかり入らなくなっていた。
彼女が唸り声を上げている間、遥か上空では黒い雲が急激に発達してさっき以上に不穏な低音を鳴らしていた。
紅生姜の小袋を開けることに一杯一杯な吉乃はそれに気が付かない。
「ぬあああ……!」
人目が無いことをこれ幸いと恥も外聞もなく全力を出す。
黒雲も遠慮なく発達を続けゴロゴロと音を鳴らす。
「あああああ……!」
夢中になると視野が狭くなりがちな吉乃、変わらず力を込める。上空からのゴロゴロゴロなんて音はもちろん届かない。
「あああああ……! あ!」
ピッと紅生姜の小袋に裂け目が入ったのと、カッと辺りが稲光で照らされたタイミングが偶然にも一致した。吉乃が小袋の耐久力に打ち勝ったのと、黒雲から地上へ放電が起こったのがほぼ同時だったのだ。
瞬間、黒雲から解き放たれ中空を走った稲妻が周りの木々など意にも介さず、狙ったように吉乃の近くの拝殿に落ちた。落雷が起きたのだ。
しかし吉乃は雷が落ちたことなどわからなかった。端的に言えば巻き込まれていたからだった。
スローになる時間、それと激しい音と光。その中で吉乃が知覚出来たのは、小袋から飛び出し宙を舞う紅生姜と牛丼の焼ける匂いだった。真っ白な光の背景、紅生姜は生き生きと舞い、牛丼は黒焦げになる前に香しい香気を放った。そして吉乃は座った姿勢のまま重力の鎖を引きちぎって空中へと舞い上がっていた。その表情は小袋を開けられたと言う達成感からかどこか満足気であった。
そんな舞い上がる吉乃の作る影にもう一つ人影が重なった。しかしそれらはもしかしたら吉乃の走馬燈のようなものだったのかもしれない。周りから見たら全ては一瞬の出来事。
雷が落ちた後、拝殿からは火の手が上がり、吉乃は吹き飛ばされてベンチから離れた地面に、黒焦げの牛丼だったものと共に倒れ気絶していた。
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