牛肉とご飯と紅生姜
てつひろ
第1話
この小さな紙をカウンターに置く、それだけでいい。特に声を出す必要もない。ほら、すぐに店員が小走りでやって来るから。
食券を手に取り内容を確認した店員が厨房に向けて声を上げた。
「牛丼一丁!」
どこにでもある牛丼チェーンの平日の昼。会社員や学生で賑わっている店内は常に満席かそれに近い状態だが、長居する人はほとんどいないため、回転は良く客の出入りが途切れることはない。
忙しそうだな。
店員はひっきりなしに、入れ替わり立ち代わり出入りする客の対応に追われている。空いた席の食器を片付け、待っている人を案内し、注文を確認する。サービスのお冷を用意して、時々発生するイレギュラーな事態にも対応する。
厨房も戦争だろうな。
吉乃はその様をありありと思い浮かべることが出来る。
使用済みの食器でいっぱいの洗い場。食材を焼き続ける焼き場。煮込み用の大鍋。家庭ではありえない大きさの炊飯器。そしてフロアから次々と容赦なく伝えられる注文。
湯気立ち昇る炊飯器から白米が器に盛られ、火を絶やすことのない大鍋からは煮込まれた牛肉と玉葱がお玉で救い上げられ、その具は滑るように白米の上へ。別々だった具材たちはここで初めて牛丼となる。
透き通った茶色い玉葱と柔らかく煮込まれた牛肉はその繊維一つ一つにまで味が沁み込み、そこから溢れ出した旨味たっぷりの汁はやがて白米に広がって行く。
しかし店員にはそんな想像を膨らませて完成の余韻に浸る時間はない。すぐさま牛丼の容器に蓋をしてビニール袋に入れ運ばなければならない。そう、客の元へ。そして今その運ばれる先にいる客は、私。
来た。
「お待たせしました!」
店員の元気な声と共に差し出される牛丼。
吉乃はそれを受け取ると案内に従ってカウンターに設置されているテイクアウト用の割り箸に手を伸ばした。その先でピクリと彼女の指先が止まる。そんな彼女の視線は割り箸の隣、紅生姜の小袋に止まっていた。
後ろには別の客が待っている。ほんの一瞬の逡巡だ。
吉乃は紅生姜の小袋を一つ手に取り割り箸と合わせてビニール袋に入れた。それから袋を提げて店の出口へ向かう。
彼女の背中に店員の声が響く。
「ありがとうございました!」
吉乃は仕事の昼休みを大抵今日のように過ごしている。
会社や学校の多いこの地域では、平日、昼になるとどの飲食店も混雑する。当たり前だが昼休みの時間は大体どこも一緒だからだ。
例え飲食店に入店して運良く座れたとしても、ゆっくり過ごすのは気が引ける状況だったりして、そんなの気にしなければいいと言われればそれまでなのだが、生憎彼女は結構気になってしまうタイプなので落ち着いていられない。
そこでテイクアウトだ。テイクアウトならば混雑していても購入前の行列に並ぶ程度で、購入後は誰に気を遣うこともない。
吉乃はそのための店を何店舗か決めていて、いつもその中から気分も含めて、その日の昼食を決めていた。今日は中でも最も利用頻度の高い牛丼チェーンで昼食を確保したと言う訳だ。
そんなこんなで滞りなく昼食の確保を済ませた彼女はいつもの場所へ向かう。その行動に澱みはない。いつもの道をいつものように。
退屈な昼休み。毎日の決まった仕事。変化のないつまらない日常。そんな日々にも慣れてしまった。少しくたびれたスーツ。履き古したパンプス。忙しいことを言い訳に伸ばしっぱなしの髪の毛。ブルーライトに当てられて充血した目。軽度の不眠症で作った目の下のちょっとした隈。『冴えない女性事務職員』そんな看板でも提げれば今の吉乃を説明出来てしまうだろう。
あ、そう言えばこの間、初めておばさんって言われたっけ。こんな格好じゃしょうがないのかな。確かに学生に比べたら大分おばさんな訳だし……。いやいやいや、待て待て、駄目だ駄目だ。まだ二十代前半だぞ。いくらなんでも早すぎるだろ。肌だってまだまだぴちぴちだぞ。水だってしっかり弾くし、防水機能は壊れてないはずだ。
気を抜けば自虐的になりがちな思考。それに何とか歯止めをかける。
いかんいかん、仕事で怒られた後はどうにもマイナス思考になっていかん。はぁ。しかし今日も朝から派手に怒られたな。理由は何だったか良く覚えていないけど。
ふと、向こうから歩いてきた若い男女二人の繋いだ手に視線が奪われる。指と指を絡めた所謂恋人繋ぎ。二人の間に距離はなくぴったりとくっついていて、時折微笑み合ったりなんかしている。
いやいや違う違う、妬ましくなんかない。ちょっと気になっただけ。暑くないのかなとか、歩き難くないのかなとか、前方不注意で危ないなとか、穴があったら落ちて欲しいなとか、そう思っただけ。大丈夫。大丈夫大丈夫。私にはこれがあるから大丈夫。
しつこいくらいに自分に大丈夫だと言い聞かせて変に上がった心拍数を落ち着かせ、吉乃は牛丼の入ったビニール袋の取っ手を強く握りしめた。
袋が足に当たりカサリと乾いた音を立てる。だけどもちろんビニールの取っ手は握り返してはくれなかった。
いつもの場所、いつもの公園に到着した。
中規模な自然公園と言った所で、季節を彩る植樹にはきちんと手が入っていて、芝生も刈り揃えられた、整備が行き届いている市民の憩いの場だ。噴水なんかもある。
ここの幾つか設置されているベンチの一つで昼食を食べるのが吉乃の普段の昼休みだった。ベンチの中には小屋のようになっている屋根付きのものもあるので、多少の雨が降っていようと吉乃はここにやって来る。
一度台風の暴風雨の中、ここに来たことがあるのだが、びしょ濡れになるわ、弁当は飛んでいくわで、それは流石に馬鹿だったと吉乃は自戒している。
今日もベンチで、と思っていたのだが生憎先客がいた。
子供連れの四人家族だ。父親と母親、小さなお姉ちゃんともっと小さな弟くん。美味しそうな手作り弁当を広げて楽しそうに過ごしている。
絵に描いたような幸せな家族。笑顔が本当に眩しい。その優しくも強い光が周囲までをも照らしている。向こう三軒両隣、辺り一帯のベンチが幸せオーラに包まれていた。
吉乃はそんな幸せオーラを前に、その場から一歩もベンチに近づけなくなってしまった。光が吉乃の闇を浮き彫りにする。光が強ければ闇も濃くなる。吉乃はあの家族の隣で一人で牛丼を食っている自分を鮮明に想像するのと同時に、自身の心の闇が膨らんでいくのを感じた。
彼女は目を伏せると結局ベンチを諦めて踵を返した。
今の私には目に毒だよ。
目だけではない。心に毒だ。羨んで、妬んで、それでその後、どうして素直に他人の幸せを認めることが出来ないのかと自分に返ってくるのだ。毒の刃はいとも簡単に自分を傷つける。吉乃はそれを知っていた。だからそうなる前に早々に引き返した。
幸せ家族フォーエバー。さて、私はどこへ行こうか。
公園の時計で時間を確認する。ここまでは迷いなく行動してきたため移動する余裕はまだある。それでも昼休みはそんなに長くはない。早くどこか見つけなければいけない。この際座れるところならどこでもいい。吉乃は頭の中で心当たりを検索した。
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