11月25日
手紙の内容は全て検閲された。
一切の情緒など知らんといった様子の髭面がペーパーがくしゃくしゃになるまで眺め透かし、これならよし、と言って真ん中にでかでかと判を押す。
正直なところはらわたが煮えくりかえりそうであった。
彼は再び小説を書き始め、私がそれにアドバイスするという日々が続いた。
書簡は大抵、夫人との暮らしの中であったささやかな出来事の報告に始まり、創作の進捗や読んだ本の感想、面白かった話、そして最後は必ず相手を気遣う言葉で締めくくられていた。
――あんなに暴れていた君が、こんな風に人並みの幸福を享受できるなんて、一体だれが予想できたでしょう。
出会った当時は三十半ばであった彼も、今では五十を目前にしている。
私も歩くのに杖が必要になるくらいには老けた。
思い返せば、獣としての獰猛な姿も、青年としての理知的な姿も、どちらもが彼の本質であったのだろう。
その瞳は時として憎悪に燃え、唇は現体制への苛烈な呪詛を紡いだ。
憎んだ先が、運よく人間ではなく差別そのものだった、ただそれだけが彼を善の側へと留め置いたのだ。
そういった性格は全く彼の思想とそっくりである。
都会育ちの彼は辺境で暮らす亜人の獣性というものを知らなかった。
裕福な親によって与えられ、彼自身の誠実さによって存分に伸長された教養は皮肉なまでに物事の本質を捉え、彼に道を指し示した。
「散々張られたレッテルを、彼らが結び着くためのスローガンにすればいい」
彼やその同志たちに接すると、亜人が野蛮で未開だというのが本当かどうか疑わしくなってくる。
きっと彼もそれには気付いていただろう。
だが、多くの亜人が経済的苦境に立たされ、存分な教育を受けることができないのも確かである。
だからこそ彼は、理性と熱狂、この二つの相反する武器をもってこの国の悪習に立ち向かわんとしたわけである。
理解できない訳ではなかったが、私はそれに全面的に賛成することもできなかった。
差別が撤廃された後はどうする?
そう考えてみれば後々に禍根を残すやり方なのではないか。
だが、実際に理不尽を受ける側である彼と、安全圏から活動をつづける私とでは、この問題に対する切迫の度合いが違うのは当たり前だ。
かつて私は彼にこうしたことを語った記憶がある。
彼は穏やかに微笑んで言った。
「先生はあいつらとは違いますよ。
俺のようないつ投獄されるか分からない人物と付き合ってくれるヒューマンはあなたくらいです。
だから、そんな遠慮はしないでください。
俺だって自分の思想が完全無欠なものだなんて思っていませんから。
みんなで話し合って、よりよい方法を模索していくのが俺たちのすべきことです」
その百点満点の模範生のような回答の善良さが私を不安にさせた。
私には、大抵を卒なくこなす君が何か軽んじて落としてしまっているものがあるのではないかという漠然とした恐れがあった。
そして、彼は徹頭徹尾として活動家であった。
11月25日、首都ニューフォードにおいて起こった蜂起。
初めは誰が発砲したのか分からない。
議会前に押し掛けていた亜人のデモ隊と警察の間で行われた戦闘行為。
中学生になったばかりの少年が殺され、子供を身ごもった母親でさえ命を奪われた。
死者は合計631人、だがこれも確定した数字ではないらしい。
その数日後、ニェウシからの一切の連絡は途絶えた。
まさか、暴動のさなかに身を投じるつもりなのか?
確かにこの事件は私たちが今まで行ってきた活動を全て無駄にしかねないほどの性急なものではあった。
あれを軟着陸させられる人材は、牢獄に送られた者や既に死去した者を除けば彼しかいなかった。
だが、死んでしまったら平等もなにもないだろうに!
私は狂ったように手紙を送りつづけた。
――馬鹿なことはやめなさい、あなたが行ったからって何になるのです、頼むからこの老婆の言うことを聞いてください、あなたという友人を失いたくないのです、あなたがいなくなったらカサンドラ夫人はどうするつもりなのですか、返事を寄越してください、頼むから、どうか、どうか――。
自宅に張りついた監察官は「緊急事態であるから」と決して私の外出を許さなかった。
この軟禁下では夫人に会うことさえできまい。
新聞だけが暴動の様子を知れる唯一の手掛かりであった。
私には二週間と言う時間がまるで幾万年のように感じられた。
ニューフォードでの混乱は鎮圧され、とうとうワトゥ=アーサー=ニェウシが投獄されたことを私は知った。
何もできない自分がもどかしかった。
さすりつづけた左の手の甲は荒れ、噛みしめた唇は食事の度に痛むほど。
数日後、警察によってニェウシが心臓麻痺で死んだと発表された。
――馬鹿だ、馬鹿だ、大馬鹿者だ。
融通の利かない頑固者、殺されにいった薄情者。
杖を握る手は緊張を失い、私は玄関の白い壁に凭れかかる。
日が暮れてようやく我を取り戻し、軽く湯船に浸かってその日は眠った。
軟禁が解かれた瞬間に、私は大急ぎでニェウシ邸へと向かった。
久しぶりに歩いた体は悲鳴を上げ、全身の筋肉が私に逆らった。
だが、そんなことにかかずらってはいられない。
幽鬼のように青ざめた私を、カサンドラ夫人は隈の目立つ笑顔で迎えてくれた。
葬儀を待つ彼の骸は醜く腫れあがっていた。
部屋には血や糞尿、そして腐り始めた臭いが漂っていた。
涙さえ出ない私に夫人が差し出したのは一枚の封筒。
中には彼の遺書が入っていた。
『カサンドラのことを頼みます。今まで、本当にお世話になりました。先生のご厚意を無下にしてしまったこと、大変申し訳なく思っております。あなたという得がたい友人を得られたことは、私の生涯の誇りでした』
「あなたは、私が何を言ったって、こうして死ぬつもりだったんですね」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます