魔導書
昏枕くら
魔導書
魔導書って、あるだろ?
……いや、そんな露骨に不信の目を向けないでくれよ。別に変なカルトとかじゃねえ、そこは安心してくれ。
じゃあなんでこんなことを言い出すかって?
そりあ、お前。あるんだよ、ここによ……ホンモノの魔導書が。
……え、おい……まったく、何も逃げるこたあないだろう。……ていうかあの野郎、せめて勘定くらいはして行けってんだよ、くそ。
まったく、どいつもこいつも何だよ、俺を胡散臭い目で見やがって。
……おっ、そこの旦那。ちょいと。あんただよ、旦那。
ちょうどいいところに来た。ちょっとばかし話聞いて行ってくんねえか。俺が話し出すや否や、みんな変な宗教かなんかだとすぐ早とちりしやがるんだ。まったく、冷てえ連中だぜ。自分が損をしてるってのに、てんで気づいていやがらねえ。嫌だねえ、都会の人間は。
えっ、何だって。そんなんじゃ逃げられるのも無理はないって?
まいったね、こりゃあ。ほんならどうして旦那は逃げねえんで?
……なに、好奇心?
へっ、へっ。世の中にゃずいぶんと酔狂な旦那もいるもんだな。しめたもんだぜ。
……いや、何も言ってねえっすよ、旦那。さあさあ、まずは一杯。話はそれからだ。おうい、姉ちゃん、生二杯!
……なに、早く話を始めろって?
酔狂なだけでなくせっかちときてやがらあ。最近の若いもんは困るね、扱いが難しくてしょうがない。
……まあいい、せっかく逃げずに聞いてくれるって言うんだ。そこんとこは大目に見よう。まあゆっくり聞きな。別に面白い話は逃げねえ。ま、俺が忘れちまうかもしれんがな。へっ、へっ、へっ。
俺はな、旦那。オカルトだとか、お化けだとか、そんなもんは端っから信じねえ性分でな。ましてや魔術やら呪いの本やらなんやらは、まあ相手にしちゃいねえのさ。
……そんな俺がどうして魔導書なんかを持って吹聴しているかって?
だから焦っちゃいけねえ。落ち着いて聞いててくれ。そこが話のミソなんだからよ。
でな、ガキん頃から肝試しだの心霊スポットだのによく連れていかれてたわけよ、まあ俺がいりゃあ安心とでも思ったんだろうな。クラスメートのガキんちょ共はそりゃあひどくビビってやがったが、こちとらてんで怖くねえ。で、怖くねえんなら面白くもなんともねえわけだ。みんなで盛り上がってる中一人だけずいぶんシラけててな。置いてかれてるみたいで、嫌な気分だったぜ。
でもまあ悪いことばかりじゃなかった。わけても一緒に行ったユリちゃんとかいうのが——これが滅法可愛くてな、俺は他の奴らに負けず劣らず惚れ込んでたわけなんだが、よっぽど怖いのが嫌なのか、その子がびくびく俺の袖を掴んできてな。何かに驚くたびに「きゃあっ」なんて言って飛びついてくるのよ。もう、嬉しいやら誇らしいやらでニヤニヤが止まらなくてな。一人だけ違う意味で心臓はドキドキ、アッチの方も元気いっぱいになっちまって……おっと、話がそれちまったな。とにかく、それが唯一の、だが最大の楽しみだったわけよ。結局それ以外じゃろくに話してくれなかったどころか、勇気出してこっちから話しかけても、ひと睨みして逃げられちまっていたがな。そんでそれを見て女子共がクスクス笑っていやがったな。まあ、こんなのは別に何だっていいんだ。
で、そんな俺だからこの三十年、実直堅実な生き方をしてきたわけよ。……あん? そうは見えない、だ? 抜かしてんじゃねえ、人を見かけで判断するんじゃねえよ。
まあとにかく人生において(時に問題は起こしたが、それは大目に見てくれ)俺は現実的な姿勢を貫いてきたってわけ。だがこんないい男なのに、なぜか女の子は俺を避ける。それもずいぶんな避けようでな。俺が頼られるのは、ガキん頃の肝試しがピークだったわけだ。それが俺の青春のすべてよ。暗闇だったからな、女の子たちは頼れれば誰でもよかったんだろうよ、へっ。
それが、つい一か月前のことだ。
俺はな、休日を利用して美術館に行ったんだ。
……だから、うるせえ。ガラじゃねえのは分かってんだよ、黙ってろ。
そりゃあ、芸術だとかアートだとか、そんなもんはてんでわからねえ。他の奴らが有難がって眺めている絵の、どこがいいんだか。よくもまあ同じ絵の前に五分も十分もいて飽きないもんよ。なにがそんなにおもしろいんだろうなあ。
俺が行く気になったのはだな、聞いて驚くなよ。
……ユリちゃんがいたからなんだよ。
……なに妙に納得した顔してやがる。馬鹿にしてんな、てめえ。
とにかく、ユリちゃんが学芸員になったって話を聞いてたんだ。あの子、昔からそういうの大好きだったからな。ごっほごっほとかいう喘息持ち野郎のひょろひょろしたヒマワリの絵のクリアファイルとか、学校に持ってきてたしな。他にも、ごぎゃーん!だの、マネーがモー無え、とかいうヘンテコな名前の画家とかが好きだって、よく話してたな。
でもなんだ、専門はそんなやつらの絵画じゃなくって、チューせいヨオロッパのシャボン?とか言っていたがな、まあさすがはユリちゃん、頭いいからな。俺にはよくわかんねえけど。
んで何年か前、地元で同窓会があったんだけどな。ユリちゃんは来てなくて、他の奴から東京の美術館に勤めてるって話を聞いたんだよ。それきいてなんだか胸の方がざわざわしてな。そん時俺はまだ地元で燻っていたから。東京かあ、やっぱりユリちゃんは、すげえよなあ。もう手が届かねえや、なんて一人で勝手に悲しくなっちまってよ。
ところがとうとうこの俺にもチャンスが回ってきやがった。なんでも、当時勤めていた会社が東京に進出するってんで、その要員を出せってことらしい。東京っつっても、都会じゃない西の方だけど。そんでも東京は東京だ、これは神様の思し召しか、運命なんだって本気で思ったね。俺はボスに頭下げて頼み込んで、必死だったよ。
会社での成績は良くはなかったが、ボスには可愛がってもらってたからな。ボスもしぶしぶ、だけど俺がここまで熱心になってるのを見て、放ってはおけなかったんだろうよ。
そんでどうにか俺の東京行きが決まった。
そんなわけで、俺は東京生活が始まったその休日に、美術館に行ったのよ。と言っても、自慢じゃないが、俺はゲイ術のゲの字もわかんねえから、何をどう見たらいいのかもさっぱりだった。でも目的はあくまでユリちゃんだったからな。
勤め先は聞いて知っていたが、まあ必ず会えるとも限らないから、ダメもとだったのよ。
チケットを買って、ゲートで切ってもらって、中に入った。ここまではそれらしき人は見つからず。そもそも二十年弱経ってるんだから、見つけたとしても分かるかどうかもわからない。でも、なぜか期待しちまう。それが男ってもんなんだよ、わかるだろ、旦那。
で、俺は暇そうな爺さん婆さんや勉強熱心な学生さんたちと一緒に、ゲイ術ってやつを鑑賞してた。中学校んときに地元の美術館に見に行かされて以来だったな。あんときは退屈でしょーがなかったが、今見ると少し「良さ」ってもんが分かるようになってきて、我ながら感動しちまったよ。特に、尻のデカい女のヌードや、ちっさいガキんちょのチンポコなんかはよく描けていたな。
……あん? 文句あんのか、てめえ。
でもあれはたしかに大人にならないと分からねえ。特に尻のデカい女の良さなんてもんはな、子供には早えよな。当時のユリちゃんには分かってたのかと思うと、やっぱすげえなって思う一方で、少しフクザツな気分になるがな。
……いや、でも本当によかったんだからな、感動しちまった。特にあれだ、あれが気に入った。あの「ヴォケナスの誕生」みたいなやつ。あとはそうだな、「裸のママハハ」「パイパンのヨクジョウ」なんかも最高だった。
……おっと、思い出しただけでソワソワして来ちまった。へへ、いけねえ。
……まあ、そんな感じでゲイ術鑑賞をしていると、いつの間にかヘンテコな絵ばっか並ぶ部屋に入っちまった。
とにかくヘンなんだよ、下手くそなんだ。ぺらっぺらの絵で、人や馬なんかも全然リアルじゃなくてな。あれくらい、俺でも描ける。裸の女も、まったく無えんだ。
壁に書いてある解説を読むと、なんでもチューせいって時代はみんなこんな下手くそな描き方だったらしい。俺みたいなのがいっぱいいたんだろう……いや、それはおかしい。俺だったら裸の女を描くはずだからな。
しかし、だ。時代なんかが矢印やら数直線やらを使って解説してある壁のパネルを眺めながら、俺はピンと来たんだ。ユリちゃんの専門とかいうチューせいってのは、こいつのことなんじゃないかってね。シャボンは何のことだかさっぱりだが(シャボン玉の絵でも研究してるのか?)、とにかくこれは間違いない。だからここがユリちゃんの担当なんだって思うと、ワクワクしちゃってな。それに、チューせいには胸と尻のデカい女のヌードもないから、安心だしな。ユリちゃんがそんなのを研究しているとなったら、俺は悲しいよ。
ユリちゃんに一歩近づいたんだって思うと嬉しくなって、ついつい夢中になっちまった。チューせいのコーナーを散策しているうちに、気づいたらよくわからないところに迷い込んじまってよ。たぶんどっかで、立ち入り禁止の場所を通っちまったんだろうよ。俺は誰もいない、暗い通路にいた。
あわてて戻ろうと思ったが、ここで閃いちまった。そうだ、ユリちゃんがいるとしたら、関係者以外立ち入り禁止の場所に決まってる。なら迷ったフリをして(実際に迷っていたけどな)、ちょっとばかし探してみようってな。
そんで薄暗い廊下をこっそり歩きまわった。不自然なほど静かで、人の気配も全く無え。本当に気味が悪いったら無かったね。
しばらく歩くと、一つだけ扉の開いてる部屋があった。ここにいるんじゃないかと思ってそうっと入ってみたが、誰もいない。だが俺が驚いたのはそんなことじゃあねえ。部屋の真ん中に置いてあった、馬鹿デカい一枚の絵なんだよ。
……なんとも気味の悪い絵だったね。
描き方自体は表にあったぺらぺらの下手くそなやつと一緒なんだが、内容がなんとも言えない。たくさんの人が倒れたり、大口を開けて叫んだり。中にはちぎれてバラバラになっているやつもいた。でも一番おっかないのが、真ん中にデカデカと書かれた奇妙な生き物だったな。
そいつは言ってしまえば、ドラゴンみてえだったな。でも頭が七つあってな、身体は人間なんだ。頭の横から魚の頭みたいなのが生えていて、角があった。そんでヘンな王冠みたいなのをかぶって、ヤギみたいな目を細めてニヤニヤ笑ってたのが、なんとも気持ち悪い。腕が四本あってよ。二本の手で変なポーズをとって、別の二本で人間を食ってやがったのよ。足元にはたくさんの人間がひれ伏してたっけな。
そんで絵の横には、古くてぼろぼろの木箱があった。
そのとき、外から話し声が聞こえた。慌てて俺はその場に隠れたんだ。
部屋に入ってきたのは、黒髪の女性と、ひょろひょろしたイケ好かねえ男。俺は一目でユリちゃんだってわかったよ。思わず心臓がドキンと跳ねやがった。危うくなりふり構わず飛び出していくところだったよ。
二人は絵を眺めながら、何やら小難しい議論をしていた。それから、絵の横の木箱をこじ開け始めた。
ばこん!っていう大きな音を立てて箱が開いて、二人で中を覗き込む。よっぽど予想外のものがあったのだろう、一分くらいぽかんとしていたっけな。恐る恐る男が手を突っ込んで、取り出したのは、真っ黒い一冊の本だった。黒いしひどく汚れているしで、表紙は何が書いてあるか遠くからじゃさっぱりわからない。おまけに相当ぼろぼろと見えて、手袋をはめた手で馬鹿丁寧に扱っていやがる。あれを見たとき、一瞬背筋が冷ッとしたし、部屋の空気も急に澱んじまったみたいだった。
それからその本を、ガラスケースに入れて二人は出て行った。
それから俺は美術館に通うようになった。周りに人がいないのを見計らっては、立ち入り禁止のロープを跨いで、例の部屋に入っていったんだ。
それで、隠れてユリちゃんをこっそり眺めてた。話も色々聞いたな。俺にはよくわからねえ話がほとんどだったけど。
嫌なのは、あのイケスカねえ野郎だ。最初に見たときはなんだかもやしみたいな研究者さんってイメージで、単にへなへなしてたのが気に障ったんだが、徐々に様子が変わってきた。
特にユリちゃんへの接し方が、明らかに変わっていやがる。なんだか妙に距離が近いし、隙あらばべたべたしようとする。ユリちゃんもそれに気づいて、それとなくかわしていたんだが、あの野郎、しつこい上に遠慮が無くなっていやがる。俺が最初に見たときもこんなだったのだろうか。ユリちゃんも相当困惑しているみたいだから、その変化は明らかなんだろうな、と思う。何より嫌なのは、あの目つき。少しユリちゃんが目を離すと、野郎、じとっとした、ぎらぎらした目で彼女を穴が開くほど見つめてやがる。その様子を見ながら、俺は胸の中がぞわぞわして仕方なかった。
あるとき、いつものように隠れていたら、ユリちゃんが入ってきた。その日も男が一緒だった。あのイケ好かねえイケスカ野郎だ。
二人はしばらく真面目な顔でなにやら話していたが、相手さんが急に黙り込んだ。ユリちゃんは少し戸惑っていたが、男は彼女をじっと見つめて、何を思ったか、あの野郎、キスしやがったんだ。ユリちゃんはびっくりして、身を強張らせていたが、野郎のキスは徐々に激しくなっていく。ユリちゃんの華奢な体を抱きしめて背中に腕を回し、撫でまわし始めたんだ。相手をむさぼらんばかりのキスだったよ。
それからユリちゃんを机の上に乗せて、スカートの上から脚をまさぐり始めた。もう片っぽの手は……わかるだろう、胸を撫でまわしてたんだ。ユリちゃんは抵抗もせず、されるがままという感じだった。やがて野郎の手がスカートの中に入り、ちょっとずつたくし上げる。ユリちゃんの白い綺麗な足が露わになっていく。
上の方も、ボタンが外されて形のいい胸が見えていた。
ここまで来て、俺の方も耐えらんなくなってきてな、でも目は釘付けだったよ。
さすがに男が自分のナニを出した時は、ユリちゃんも目に見えて嫌がった。でも何か抵抗しきれない理由があったんだろうな、そのへんの人間関係は分からねえけどよ。
戸棚の中で、ユリちゃんの喘ぎ声を聞くことになるとは思わなかった。さすがに俺も堪えたね。なにか、大切な物が音もなく崩れ落ちていったよ。
……事をし終えると、野郎は黙って出ていきやがった。残されたユリちゃんは、慌てて部屋をきょろきょろ見回して、服を直した。
そしてしばらく顔を俯けていたな。……顔は見えなかった。
それからゆっくりした動作で部屋を見回し、ガラスケースの方を見て……固まった。慌てて見に行き、何度も開けたり閉めたりした後、大急ぎで部屋を駆け出して行った。
もう安全と思って部屋に出て、ケースを見てユリちゃんがあんなに慌てていた理由が分かった。
……無くなっていたんだよ、例の本が。
次の土曜日。俺は渋谷のカフェにいた。
……ニアワナイ、じゃねえよ、あん? ちゃんとワケってもんがあるんだ、おとなしく聞いとけ。
……あの一件以来、俺はユリちゃんのことが頭から離れなかった。それまでもユリちゃんのことを考えなかった日はないが、それ以上にずっとユリちゃんのことで頭がいっぱいだったんだからな。……変な意味じゃねえ、心配だったんだ。
俺が出る幕じゃねえのは分かってらあ。あの子はあの子で、ひとりこっちに来て夢叶えて、もう俺なんかとは違う世界に住んでいる。だから俺なんかが心配するような資格は無いんだってことくらいな。
でも少なくとも、俺は気になって仕方がない。だからこれは俺のエゴなんだ。俺が勝手に首突っ込みたいから突っ込んでるだけで、俺のためなんだって割り切ることにした。たとえそれでユリちゃんと二度と関われなくなってもな。
だがのぞき見していたことはさすがに言えない。だから何も知らない体で、ひとまず様子を伺おう、それで向こうから頼ってくることがあれば、その時は精一杯力になってやろうって思ったのよ。
……子供の時みたいにな。
時間ピッタリに来たユリちゃんは、すぐに俺に気づいてくれたよ。「変わんないねー!」なんて笑ってくれちゃって。睨まれてばっかりだった俺には、違和感でしかなかったがな、へっ。
それから世間話みたいなことを話して、その日は終わった。また機会があればよろしくねって感じで。まあ、悪くねえ感触だな。思えばずっと東京で一人で頑張ってたんだもんな。ユリちゃんのことだ、東京のお洒落な頭のいい友達はたくさんいるだろうし、少しくらい懐かしくなってくれりゃあそれで充分すぎるってもんよ。
次の日、俺はいつものように美術館へ行った。行こうとした、というのが正しいな——入れなかったんだ。
美術館にたどり着いてみると、なにやら騒がしい。パトカーやらなんやらが止まっていて、人がたくさん集まっていやがる。周りにはお決まりのテープがぐるりと張ってあって、一般人は入れないようにしてある。
まわりの野次馬連中の話によれば、どうも中で死人が出たらしい。
まさか……と思ったが、どうも死人は男性らしく、ここまで聞いて安心したが、同時にあのイケスカ野郎の顔が浮かんだ。
それ以上は何も収穫がなさそうだったからその日は帰った。そして——ユリちゃんからお呼び出しがかかった。
ほんの数日ぶりに合うユリちゃんを見て、驚いたよ。目には隈ができて、頬もなんだかげっそりしていたんだから、こりゃあたまらない。例の事件はすぐにニュースになっていて、犠牲者はやっぱりイケスカやろうだった。よっぽどそいつが死んだのが堪えたのか、と思っていると、どうもそうではないらしい。
ユリちゃんの話すところでは、死んだ同僚(イケスカ)はここ数年来いい仕事のパートナーで、研究者としても同僚としても一目置いていたという。それがここ数日、目に見えて様子が変になったのだ。
それだけではない。同僚(イケスカ)と一緒にいると、なにか気味が悪くなる——何かに見られているような感覚、それに猫の鳴き声のような音が聞こえてくる、と。
そして、同僚(イケスカ)の死に方が、ちょっと尋常じゃない、というのだった。そこまで来て、ユリちゃん泣き出しちまってよ。それも、ひすとりー? みたいに我を失ったような泣き方で、おかしくなっちまったんじゃないかと、ヒヤヒヤしたもんだ。よっぽど悪いもんを見ちまったのか、気になって仕方なかったが、心配でな。話を続けさせるわけにもいかねえしよ。
その日はそれでお開きになった。ユリちゃんも少しは落ち着いたが、それでも顔が真っ青だったから、送って行こうかって言ったんだ。でもユリちゃんは頑なに断った。遠慮してるんだろうな。でもあんまりしつこくても変な心づもりを疑われそうでよ、俺は引き下がるしかなかったんだが。
帰りながら、別れ際に見せたユリちゃんの怯えたような顔が頭から離れなかったんだ。——まあ、無理も無えわな。
そんで、俺は美術館が解禁されるのを待って、忍び込んだ。きっとあの本、そして一緒にあったあの絵に、何かあるに違いないってな。
だが忍び込んではみたが、例の部屋が封鎖されていた。
じゃあなんだ、イケスカ野郎が死んだってのは、この部屋なのか……?
そう思うと、ますます怪しくなってきてね。まあ、しっかり施錠されていたんで、結局入れなかったんだがな。
そうして数日間様子を見たが、何も起こらない。ユリちゃんもしばらくは休んでいるみたいで、俺も安心していたわけだ。
だが平穏もすぐに終わっちまう。ユリちゃんから急に、「出勤する」とだけメッセージが届いたんだ。いや、はたから見たら普通のことだろうな。事件があって数日休んでいた人が、回復して出勤する。その旨を最近東京に来て心配してくれている知り合いに伝える。何にもおかしいことはない。
でもな、最後に見た、ユリちゃんの顔が、何か不吉なものを伝えて来るんだよ。ユリちゃんは、あそこに行っちゃいけないんじゃないかって。
とにかく、連絡を見ていてもたってもいられなくなった俺は、ユリちゃんに何度も電話しようとしたんだが、つながらない。こりゃあ、まずいぞ、と思って、朝になって美術館が開くのを待ったんだよ。
朝一番で駆け込んだね。さすがに係の人にも顔を覚えられて、「今日はお早いですね」なんて笑顔で言ってきた。悪い気はしねえが、よっぽどの暇人だと思われているんだろうな。
生き慣れた順路を足早に通り過ぎ、もう少しでチューせいのエリアだってとこで、俺は耐えられなくなっていた。
……膀胱が。
夜寝られなかった上に、あんまり暑かったからな、コーラを飲みすぎたんだ。朝も慌てて家を出たから、用を足すことを考えていなかった。事態が事態だが、こっちも緊急事態だ。そんで急いで便所へ行った。正直危なかったね。
ほっとひと安心して便所を出て、例の場所に向かう。
関係者以外立ち入り禁止のロープを跨ぎ、いつもの薄暗い廊下を歩いていく。しばらく歩くと、もはや見慣れた扉が——開いていた。
恐る恐る入っていくと——いや、入る前から気づいていたよ——その部屋の異常な光景に。
壁一面には血が飛び散り、床には血で何か書かれている。
円形や方形が何個も組み合わさった形で、ところどころに奇妙な文字が書かれている。
その図形は、部屋の真ん中の、あの絵を中心に拡がっていた。そしてそのさらに真ん中に——
——ユリちゃんがいた。
あの気味悪い絵の上に、仰向けに横たわっていた。絵の上に磔にされているみたいだった。ユリちゃんは裸で、お腹のあたりが切り開かれ、内臓が綺麗に出されていた。まるで解剖図のようだと、不謹慎ながらも思ったもんだね。顔はすごい表情のまま強張っていたよ。性器には、変なもんが突っ込まれていたし、正直、むごすぎだってんだよ。
さすがに俺も吐いた。だが不思議なことに、一度吐いちまえば頭もすっきりするんだ。冷静な気分になれる。
傍には例の本が落ちていてな。
拾ったら、それどころじゃないってわかってるのに、なんだか中身が気になってしょうがねえんだ。ユリちゃんが目の前で大変なことになってるってのにな。
当然読めるはずなんか無えし、図や絵もなんのことだかさっぱりだった。だけど、何か意味は分かっちまうような気がして、でもそれはわかっちゃいけないことのような気がして、すごくおっかねえんだよ。
で、とにかく逃げなきゃって思った。なぜか本は捨てられなかった。
急いで廊下に出て、来た道を戻ろうとするとな、廊下の奥の方から、にゃあって鳴き声が聞こえたんだよ。可愛いもんだろ、だが可愛いなんてもんじゃあ無え。こっちに語り掛けて来るみたいなにゃあ、で気味が悪いのなんの。んで、よく目を凝らしてみると、奥の方にぼんやり人影が見えて来たんだ。
それがシルクハットをかぶった、変な奴でよ。遠目にゃわかりづらいが身体もひょろいのに二メートルはあるんじゃないかって長さだった。
とにかく気味が悪いんで慌てて駆け出したんだが、嫌なことに、ついてくるんだ。しかもなんだかおかしな言葉を呟きながら。
「エロいの、めっさいる……」とかなんとか。エロいの、めっさいる、って何のことだって必死に頭働かせて、俺は閃いた——そうだ、尻のデカい女の裸だ!ってな。それが何を意味するのかは分からなかったが、とにかくそれしかないと思って——必死だったからな、急いで関係者以外立ち入り禁止のロープを逆に超えて表に戻ってきた。そんで「裸のママハハ」やら、「パイパンのヨクジョウ」なんかがある部屋へ一直線だ。その間も後ろから声が追いかけて来やがるんだよ。
——エロいの、めっさいる……エロいの、めっさいる……
わかったわかった、ここにめっさいるから、エロいの!
頼むから落ち着けって、本気で思ったね。さすがに鬱陶しいもんな。
……それでエロいのの前に来たが、奴は全く止まらねえ。さすがに俺の命もここまでか、でもユリちゃんには会えたし、二十年ぶりに話せたし、まあいいかな。それに、結局助けてやれなかったんだ、だったらこのまま一緒に死ぬのも、悪くねえ……そう思って、ふと上を仰いだ時——
——俺の真上にあった、「裸のママハハ」が目に入ったんだ……。
この時、全身に電撃が走ったようだった。死ぬ間際に見る絵画って、こんなに美しかったんだな……なんて甘美なんだろうなって……。
あの感動は今でも忘れられない、思い返すたびにゾクゾク来ちまうんだ。あの処女の悩ましい微笑み、とんがった上向きの綺麗な胸、わき腹にかけて少し凹むような曲線美から続く、豊満な腰の肉付き……。「裸のママハハ」だけじゃねえ。「パイパンのヨクジョウ」も、「ヴォケナスの誕生」も、その他部屋に掛かっていたありとあらゆる絵画の乙女が、額縁の向こうからこっちに微笑みかけていたんだ。どこを向いても、尻のデカい裸の女と目が合うんだ……。天国に迷い込んじまったのかと本気で思ったね。その瞬間、電撃が走っちまったんだよ、身体に——俺のアソコにも。
まるで死を前にして生命の歓びに我を忘れたかのように、天上の高みに少しでも近づかんとでも言うかのように、華麗にそそり立ったんだ……。そして、幸か不幸か、ズボンのジッパーが、開いてやがった——きっと便所に行ったときに、閉め忘れていたんだ、神さまの思し召しだ、間違いない——そして、悲鳴が響き渡ったよ……館内にいた、女子大生たちの悲鳴が。
すごい騒ぎだった、すぐに人が駆け付け、俺は取り押さえられた。……まあ、展示品の絵を見ておっ立っちまったブツを露出させているんだから、当然だ、文句は言えねえな。へっ。
だが警備員に取り押さえられながら、俺は気づいたんだ。ヤツの姿が消えていることに。きっと人の騒ぎの中じゃ出てこれなかったんだろう。芸術って、やっぱりすげえな!
……それから事情聴取を受けて、まああれは事故——ズボンの閉め忘れと、絵を見て沸いたムラムラが重なり合った不幸な偶然、として処理された。
……ああ、あのことは話さなかったさ、まあ話したところで、信じちゃあくれないだろうからな。だがこいつがどうも気味悪くて仕方ねえ。警察を出てからというもの、どうも何かにみられているような気がしてならねえんだ。空耳だろうが、猫の鳴き声も聞こえるような気がしてな。だから何度も捨てようとしたさ、川に放り投げたり、ごみ箱に捨てたりしてな。
……だがそうやって捨てたと思って安心するのもつかの間、気づけば右手にしっかり握られているんだよ。気味悪いだろ。
……で、これがその当のブツってわけだ。どうだい、旦那、貰ってやってくんねえか。俺あこいつがおっかなくてかなわんのよ。手元にあっちゃあ、「まあ、どーしよ」なんてな。へっ、へっ、へっ。
……あれ、誰もいねえや。なんだい、いつの間にかいなくなっちまってたのかい。どいつもこいつも、何なんだよ。
……まあ、景気づけに一杯やらあ。おーい、嬢ちゃん!
嬢ちゃん、生一杯くれ!
……あれ、誰も返事をしやがらねえ。っていうか何だい、やけに静かじゃねえか。
……まあいいや、ちょうどいいところに猫ちゃんがいた、あんたでいいや。なあ、聞いてくれよ、猫ちゃん。
……あん?何だてめえ。
……てめえだよ、そこののっぽ野郎。なんだいその恰好は。そういうの、こすぷれ、とか言うんだっけか。つーか、いつからそこに突っ立ってやがった、気持ち悪いな。
……おい、てめえ。そんなとこで突っ立ってないでこっち来いよ、面白え話があるんだ。ちっ、あの野郎、聞こえてんのか。こっちだよ、こっち。
そうそう、それでいいんだ。……でな、魔導書って知ってるか、俺が今から話すのは、この——へっ、なにぶつぶつ言ってやがる。そんなんじゃあ聞こえねえよ、まったく、都会の人間はこうもコミュ障なのかい、嫌だねえ。へっ、へっ、へっ……
……え、何だって?
……エロいの、めっさいる……?
魔導書 昏枕くら @kohikage
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