第6話 失敗とその後

 結果から言うと、海への着水は失敗した。

 腹這いの状態で着水してしまったのだ。

 海面と自分の体が並行な状態で。

 

 普通、着水時には水面に対して体を垂直にして飛び込む。

 水の抵抗による衝撃を出来るだけ減らすためだ。

 海水に体が触れる面積が小さければ小さいほど、受ける衝撃は小さくなる。

 衝撃を減らさなければ、骨折などの怪我、高度が高ければ死ぬことだってあるのだから。


 そういった最低限の知識は持っていた。

 持っていたんだ……

 持っていたのに、この有様だった。


 見事だったとしか言い様がない。

 水に叩きつけられるエネルギーを微塵も失うことはなく、全身で受け止めていた。

 カエルのような不格好な体勢で。


 アホであった。

 飛び込みの公式大会なら、ゼロ点を叩き出してあまりの羞恥に男泣き&その後全力台パンしてしまうところである。


 現世だったら絶対に死んでいた。

 完全なるミス。

 ……言い訳ついでに、詳しい経緯を説明しよう。


 黄昏の空を下降しながら、大陸の岸辺近くの海にポイントを絞った俺は、体を傾けながら、あるいは捻りながら順調に海面に接近していった。

 体制を変えながら、四苦八苦してなんとかポイントの真上まで移動した俺は考えた。

 後、やるべきことはなんだろうか、と?

 何も考えつかなかった。

 

 それで良かったはずだった。

 俺はそう思い込んでいた。

 いや、もちろんよくはない。

 やるべきことを俺は忘れていた。

 ……着水時の姿勢だ。

 

 そのまま海へ下降していく俺は、自分の身に迫る危機を目にしながらも気付けなかったのである。

 後はそのまま待つだけだ、なんてのんきなことを考えていた。


 馬鹿だと思ったんなら笑えばいい。

 俺はもう自分を鼻で笑ったよ。


 世に生きる自己肯定感の低い者たちよ。

 世の中苦しいことだらけだろう。

 自信が持てず、泣きたくなる日もあるだろう。

 失敗を重ねる日々に絶望と怨嗟の気持ちでいっぱいの時もあるだろう。

 

 だが安心しろ。

 自分を否定することはない。

 なぜなら、こんな酷いマヌケがここにいる。

 俺に匹敵するマヌケはそうそういないだろう。

 恐怖心で体が動かなかったんならともかく、忘れてたって……

 

 自分がマヌケなことに気がついたのは、着水の一秒前。

 とんでもないバットタイミングだった。

 なんでこんな直前になって思い出す?

 

 このことに気づいた時にはもう手遅れ。

 手遅れなのは分かっていたが、少しでもマシな体制をと思って手足を動かす。


 結果。

 見事なカエルのポーズだった。

 無様だ。

 実に無様だ。

 ダーウィン賞歴代受賞者にも引けを取らない。


 海面に体が叩きつけられるのと同時に、俺は意識を失った。

 そんなしょうもない失敗オチ。


 ああ、なんて俺はマヌケなんだ。

 記憶がないから分からないが、俺の生前の死因はそこのところが関係しているのかもしれない。

 まあ、終わったことは仕方ない。

 今を見つめるのだ、俺よ。


 そして現在に時は進む。

 俺が海面に叩きつけられる場面までの回想をして、自分のマヌケさ加減に頭を痛めるのはもう終わりだ。

  

 今現在、俺はベットに横になっていた。

 白くてフカフカのシーツ。

 厚い羽毛布団。

 気持ちがいい。

 ずっとこのまま寝ていたいくらいだ。

 そんな中で、俺は目覚めた。

 

 何だろう。

 なぜベットにいるのかよく理解出来ない。


 いったいここはどこだ?

 何故、ベットに寝ている?

 最後に見た記憶の場所とここが明らかに一致しない。

 どういうことか。

 考えられることは一つしかない。

 これは誰かに運び込まれたな。

 

 そう思うしかなかった。

 だってベットに寝かされているってことは、そういうことだろ。

 助けてもらったのかどうかはよく分からないが、今の状況を作り出した者に悪意のようなものがあるかもしれない。

 油断は出来なかった。

 何せここは地獄である。


 横にしていた体を起こす。

 身体を動かすのに問題は何もなかった。

 けがもなし。


 喜ばしいことだった。

 あれだけの高度から海面に叩きつけられて、死ぬどころかけがの一つもないのだから。

 何回も言うように、俺はすでに死んでいるのに死ぬなんて表現はちょっとおかしいが。


 まずは状況確認だ、と周囲を見渡す。

 見てみたところ、ここはどこかの部屋らしかった。

 

 俺が見る限り、一般家屋らしい生活臭のする普通の部屋。

 誰かがが住んでいそうな……いや、実際誰か住んでいるだろう。

 生活痕がいたるところに残っていた。


 火のない暖炉、そして目の前には机と椅子。

 机の上には読みかけの本が置いてあって、遠目なので見えづらいが子どもっぽいタッチの絵が描かれている。

 児童向けの絵本だろうか?


 ベットのすぐ横には窓があり、景色を隠すように明るい黄色のカーテンが閉められている。

 部屋は暗く、暖炉の火と窓のカーテン越しにさす、ほのかな赤い光だけが光源だった。

 まるで、人間の世界に普通にありふれた子ども部屋のようだ。

 

 もっと部屋の中を見てみたい。

 暗いのであまりよく見えない。

 光源が欲しかった。

 

 俺はカーテンに手を伸ばす。

 光を求めて。

 見えない物を見るために。

 掴んだカーテンは、途中で突っかかることも無く極めてスムーズに横へ動いてくれた。


 夜だった。

 が、真っ暗ではない。

 まるで、街の真ん中にいるような明るさが感じられる。

 しかし、外の景色を見る限り建物らしき建造物は何も無い。

 ベットから目覚める前に見た、赤い海がすぐ近くにあるのみだ。


 夜なのに、昼のように明るい景色を演出している黒幕はどこだろうか。

 上を見る。

 

 赤い月が、人間の世界の月の何倍もの赤い光を放っていた。

 妖しい月。

 赤い景色の創造主。

 従来の月よりも魅力的に感じられる月だ。

 惹きつけられるように見る。

 

 「地獄に、来ちゃったんだなぁ……」

 

 ああ、現実逃避してぇ……

 でも出来ねぇ……


 視線を元の位置に戻す。

 赤い月明かりが光源となり、あらゆるものがクッキリと見える。

 暗闇でさっきまで気が付かなかったが、奥の方に半分空いているドアがあった。

 ドアの空いている部分から光などは漏れていない。

 向こう側も真っ暗だった。


 だから気付かなかった。

 気付けなかった。

 二つの眼光が赤い月の光に反射して、ドアの隙間から垣間見えていた。


 「……!?」

 

 ゾクッとした。

 体の芯から芯まで全部。

 某ホラー映画を見た時、布団の中が安全圏だと信じていた自分に絶望を叩き落とすシーンを初めて見た時ぐらいの怖さだ。 


 その目は人とは違う目だった。

 それは獣のよう。

 だけど厳密には獣そのものではない。

 人と獣の中間くらいの目だった。


 眼光が鋭い。

 普通の人間には出せない重圧だ。

 そうだよ、天使みたいな存在がいたんだから反対の存在だっているだろう。

 例えばそう、悪魔とか悪魔とか悪魔とか……


 そう、悪魔だ。

 二つの鋭い眼光の正体。

 だって、ここは地獄だもの。

 そりゃいるさ……


 

 体や顔は人の形。

 しかし細長い角が額から二本生えている。

 そして少し浅黒い肌。

 翼はないし、全身は黒くない。

 想像上の悪魔とはイメージがだいぶ異なっている。

 だいぶ人間よりだ。

 でも、その赤い眼光は俺をチビらせる一歩手前まで追い詰めるのに十分なものを備えていた。


 多分、俺を殺そうと思えば殺せるだろう。

 偏見もいいとこだと、思ってはいけない。

 まじでビビってます、俺。


 だから……

 だから、悪魔からこんな言葉が出てくるとは予想だにしなかった俺なのだった。


 「あら! 目が覚めたのね、よかったわ!」


 快活そうな女性の声が、部屋中に広がった。

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