第4節 想い出づくり

第41話 私を外へ連れてって

 冬なのか、春なのか。その境目なのか。

 部屋にある窓を開けてみると、心地よい冷たさの風が入り込んできた。風呂上がりにはちょうどよく、体を冷やすのに適したものだった。


「ふぅ」


 女将さんが持って来てくれたビールをコップに注ぎ、一気に喉を通らせる。思わず「くぁあ」と声にならない声が漏れた。おつまみはかなり前になくなってしまい、旅館の外にある風景をつまみにして呑んでいた。

 この瞬間のために生きているんじゃないかと思うくらいに、あたりはしんと静まり返っていた。


「飛鳥さん。もう、寝ましたか?」


 現実離れした時間を過ごしていたからか、その声が誰のものなのかがはっきりとしなかった。けれど、その直後にゆっくりと襖が開いたので正体が分かった。


「ああ、菜畑さんか」


 こうしてきちんと顔を合わせるのが、なんだかずいぶんと久しぶりな気がした。大将から紫織さんの話を聞いてから、すでに十日ほどが経っている。そのあいだに俺が菜畑さんと話したのは、あくまでも事務的なものだった。

 少しだけ不思議な気分だ。


「すみません、お酒を呑んでらしたんですね。なにか作って持って来ましょうか?」

「いや、大丈夫だよ。それよりもどうしたの?」

「なにがですか?」

「わざわざ来たのには、なにか理由があったんじゃないの」


 体勢を変えて彼女のほうを向くと、今度は彼女が目を逸らしてしまった。どういうことだ。俺に用事があったわけではないのだろうか。

 ふとそんなことを考えて言葉を待っていると、ゆっくりと彼女が口を開いた。


「私を、新地の外に連れて行ってもらえませんか」


 新地の外という言葉に馴染みがなく、すぐに理解することができなかった。だが、ここがどういう場所だったかを思い出せば、噛み砕くことは容易かった。


「菜畑さんって、時々買い物で下に降りてるよね? そういうことじゃなくて?」


 そうではないのだろうとは分かっていたけれど、俺の勝手な思い込みで誘導するわけにもいかないので、念のため質問を投げてみた。


「違います。もっとプライベートなというか、そんな感じです」

「…仕事とは関係なくってことですか?」


 誰とでもいいけど外に行きたいという意味なのか、俺がいいのかによって意味合いがかなり変わってしまうのだけれど、菜畑さんはそのことを分かって聞いているのか。

 動揺のあまり、思わず堅苦しい言い方になってしまった。


「はい。でも、だめですよね」

「おいおい。勝手に自己完結するんじゃないよ。いいよ、俺でよければ」

「…えっ? 本当ですか?」

「嘘なんてついてどうする」


 そう伝えると、彼女は嬉しそうに顔を緩めて、自身の両手を絡めていた。こういう顔もできたんだなと思っていると、今度は反対に雨が降り出したかのような表情を浮かべていた。

 ころころと変わる彼女の顔は、まるで嵐の前触れのようだった。


「……やっぱり、前にいらっしゃった彼女さんに悪いですよね。私だけが、飛鳥さんと二人きりになろうだなんて」

「彼女…? いったいなんのことだ」

「前に浮気がどうのって、旅館の前で……」

「もしかして、加奈さんのことかな。あの人なら彼女でもなんでもないよ」

「本当ですか?」


 二度目の『本当ですか』は、あまりに真剣な目をしていた。なにを思って、こんなことを聞いてきているんだろうと考えたけれど、そもそもなぜ誘う相手が俺なのかという疑問へと変わっていった。


「“嘘は”吐いてないぞ。それで、俺を誘う理由はなんなんだ? 女将さんにお願いしてもよさそうだけど」

「それだと迷惑をかけてしまうじゃないですか」

「…俺にお願いするのは迷惑じゃないと?」

「いえいえ、そんな! 滅相もございません!」


 予想通りに慌てはじめた彼女を見て、俺は少しほっとした。それまでの暗い表情が、どこかへ飛んでいったからだ。


「はは。どこか行きたいところがあるの?」

市街しがいの洋食屋に行きたいんです。ずっと、いつか行きたいって思っていたところがあって」

「その様子だと、はっきりと場所とかが分かってるわけじゃないんだね」

「……はい。だから、一緒に探してほしいんです」

「分かった、付き合うよ。いつがいいの?」

「明日のお昼、予定空いてますか」


 最近は、予定が埋まっている日なんてのはなかった。取材も終えて、原稿も書き終わり、修正も終わっている。正直なところ、上崎新地に残る意味がなかった。

 ただ、時間を進ませたくないという願望を、俺は抱いていた。それがどんなに壊れやすいものだとしても、この町を離れる気にはなれなかった。

 彼女に与えている嘘を、彼女は見破っているんだろうか。


「空いてるよ。それじゃあ、明日でいいね」

「ありがとうございます。楽しみにしてますから」


 紫織さん、俺はいつまでならここにいても許されるんだ。なんて、分かりきったことだよな。ここに来るべきでないということは、初めから分かっていたんだ。それでも、俺は“富士宮さん”を知りたかった。


 永遠に始まってほしくない春が、もうすぐそこまで追いかけてきている。異物である俺のことを、空へ落とすように。確かに、ゆっくりと。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る