第42話 きっとこれは恋じゃなく

「お待たせしました。アーリオオーリオとオムライスです」

「ありがとうございます。わぁ! 飛鳥さん!」

「どうしたの?」

「美味しそうです!」


 菜畑さんは、すっかり上機嫌になっていた。お目当ての洋食屋に入ってからというもの、珍しい風景が広がっているせいか、嬉しそうにニコニコと笑っていた。お冷が運ばれてきた段階で、かなり感情がたかぶっているように見えていたが、今はそのときよりも激しく感情が溢れているようだ。


 それにしても、菜畑さんの洋服姿というのはとても新鮮に感じる。というよりも、俺がその姿を見るのは初めてのはずだ。しかしどうしてだろう。“初めて見た気がしない”のである。

 付け加えていうなら、菜畑さんが頼んでいた『アーリオオーリオ』という料理を知らなかったのだが、初めて聞いた感覚にはならなかった。ここへ来るよりも前に、その料理を食べる機会があったのだろうか。


「飛鳥さん? …もしかして、お口に合わなかったですか?」


 考えごとをしていることがバレてしまったのか、菜畑さんが心配そうにこちらを見ていた。


「いや、そういうわけじゃないよ。ちょっとね」

「どうしたんですか、もう。今日はそればっかりです」

「ごめんごめん。さ、食べよう。せっかくの料理が冷めちゃう」


 きっと、俺は彼女に紫織さんを重ねてしまっている。想いを重ねることはいけないことだと分かっているつもりだが、正しいことだけで物事を判断できるほど、俺は単純な人間ではない。


「こうして誰かと一緒に外で過ごせるなんて、考えたこともなかったです」


 そう話す菜畑さんは、どこか寂しそうだった。


 洋食屋をあとにして、せっかくだからと近くにある百貨店を巡ることになった。勝手なイメージで、菜畑さんは洋服に興味がないと思っていたが、どうやらそうではないみたいだ。先ほどからワンピースを手に取って、まじまじと見つめている。


「欲しいの?」

「違います…よ?」

「せっかくだし、買ってあげるよ」

「そんな、悪いですよ。飛鳥さんが買う意味が分かりません」

「……お世話になってるお礼、ってことで」


 ワンピースがかかっていたハンガーを手に取ると、俺が言っているのが冗談ではないと気づいたのか、小声で『ありがとうございます』と言ったあとに顔を赤くして頭を下げられた。


 手提げ袋を持った彼女と並んで、ケーブルカー乗り場へ向かっていた。そろそろ仕事の時間だろうと思った。

 時間は気にしなくて大丈夫です、とは言われたものの、そういうわけにもいかない。

 ただ、俺はあることがずっと気になっていた。


「どうして誘ってくれたの? 誘いやすかった?」


 素朴な疑問だった。いくらお客さんが少ないとはいえ、彼女目当てでやってくる人はいる。その人たちを誘ったほうが、もっといいところへ連れていってくれるだろう。少なくとも、俺みたいなその日暮らしの人間よりはマシだと。


「えっと、言っちゃってもいいんですかね…?」

「いいも悪いもあるか…?」

「…飛鳥さんと二人きりになりたかったから、って言ったら怒りますか?」

「怒りはしないよ」


 受け入れないけれど。


「そう……ですか。実は、もう一つお願いがあるんです」

「お願い?」

「はい。一つ目は、もう叶いました。もう一つは、私のことを呼び捨てにしてほしい、というお願いです」

「呼び捨て…菜畑?」

「違います。分かってて言ってますね」


 どこか緊張しているような面持ちだったが、ふざけた返事をすると一気にそれが崩れた。


「バレたか」

「『バレたか』じゃないですよ。もう」

「優子……ちゃん」


 さすがに急な呼び捨ては、なんともいえない抵抗感がある。ここはちゃん付けで許容してもらおう、という考えである。きっとそうではないんだろうなというのは言ったあとにすぐ分かったが、ここで限界だ。


「ありがとうございます」

「…感謝されるようなことはしてないぞ?」


 意外と好感触だったのか、そのあと旅館に戻るまで優子ちゃんの表情は緩みっぱなしだった。緊張したり、しなかったり。その日の優子ちゃんの様子は見るたびに変わっていき、退屈なんて言葉が縁遠い一日が過ぎていった。



 夜になり、優子ちゃんは泊まりに来た客をもてなしていた。最近は忘れかけていたが、これが本来の彼女の姿であるはず。彼女がどれだけ気を許していたとしても、俺はあくまでも旅人。数多くいる客の一人でしかない。

 ここ最近は、彼女から部屋へ来ることも多かったので忘れかけていた。


「すみません。失礼します」

「…はい!」


 ぼけっとしていると、ふすまの向こう側から女将さんの声がした。とっさに、今日なにも女将さんに告げずに遊びに出かけたことを怒られるのかと思い、正座をしてふすまを見つめた。


「…どうしたんですか? そんなにかしこまって。これ、もしよかったら召し上がってください」

「あ、はい。わざわざありがとうございます」

「それであの…今日のことなんですけど…」


 まったく違う話題だったために油断をしていたところ、女将さんの口から出てきた言葉で、再び背筋がピンと伸びてしまった。


「ど、どうされましたか?」

「本当にありがとうございます。とても感謝しています。してもしきれません」


 言葉の意味を理解できず、なにも言えずに待っていると、女将さんがふふっと笑った。


「いえ、優子から聞いたんですよ。こんなに楽しかったのよって。話している優子を見て、行くのを止めないでよかったと思ったんです」

「知ってたんですか、今日のこと。てっきり、女将さんには秘密にしているとばかり思っていました」

「夕方前の仕事を休みしたいなんて言われたら、詳しく聞かなくても分かりますよ」


 盲点だった。確かに、よく考えてみれば分かることだった。優子はきちんと時間をもらったうえで、俺との時間を過ごしていたんだ。そうでなければ、百貨店に寄る時間なんてなかったか。


「あんなに楽しそうに話している優子を見たのは、富士宮さんと一緒にいたとき以来かもしれないわね」

「優子ちゃんと富士宮さんは親しかったんですか?」

「親しかったというよりも、あれはまるで姉妹だったわ。別の部屋があるのに、よく二人で一緒に寝たりしていたもの」

「そうだったんですか」


 誰かと親しくしている紫織さんの姿を想像できないのは、俺自身のせいだろうか。


「あの子、言っていたの。優子の頭を撫でたあとで『こうしてると、昔のことを想い出すんです。すごく落ち着く』って。今になって考えてみると、あれは大垣さんのことだったのかしら」


 かりそめの恋人期間で、俺は何度か紫織さんに頭を撫でてほしいとお願いをした。だから、女将さんの言っていることが不思議でならなかった。まるで、紫織さんが自主的に、優子ちゃんの頭を撫でているように聞こえたからだ。


「実際、彼女はかなり人気だったわ。出ていくって言われたときに、引き止めたくて仕方なかった」

「そんなにですか」

「本当よ? それでね、ここを出ていく日に言っていたの。『大垣飛鳥っていう、女の子が来るかもしれません。その人がここに来たら、すみませんがよろしくお願いします』って言われたのよ。だから、本当はここに初めてあなたが泊まりに来たときに、富士宮さんの知り合いだってことは知ってました」

「……だから、俺のことを女だって知ってたんですか」


 正確にいうと、本来の性が女であるわけではないけれど。ここでその話をするのは野暮というものだ。もうすぐ離れようとしている場所の人に、話すようなことではないだろう。


「でも、大垣さんがそうしてるのには理由があるのよね。そう思って、特に触れようとは思わなかったわ」

「ありがたいです」

「それで……今日はそういう話をするつもりじゃなかったんです。優子のことなんですけど」


 そう言われて、俺はその先に続く言葉がなんであるか考えてみた。この流れで言われることは、きっとあれしかない。それはつまり、俺がここを離れる理由として最適なものだ。優子ちゃんには申し訳ないが、無理やりでもそういうことにすれば、強制的に離れてしまう。


「女将さん。ご迷惑をおかけしました」


 言われる前に謝ろう。大切な優子ちゃんと親密な関係になってしまい、今日は一日中連れ回してしまった俺には、きっと責任が生じている。


「なんの話ですか?」

「いや、そろそろ優子ちゃんから離れろってことでも言われるのかと」

「違いますよ。優子のことを、東桜の外に連れていってほしいんです」


 言葉の意味をそのまま捉えると、女将さんは俺にとんでもないことを言っていることになってしまう。だが、おそらく考えているような意味ではないだろう。


「…と言いますと?」

「実は、優子に縁談がきてるんです。その相手の方が、きちんと会って話したいと言っているみたいで。大垣さんになら、安心して付き添いをお願いできます。ぜひ引き受けていただけませんか?」


 見ず知らずの長期滞在者に、そんなことをお願いするだろうか。かなりぶっ飛んだことを言っている自覚はあるのか。そう聞きたかったが、どうやら俺にはそれを断る選択肢はないようで。

 むしろ、俺にとって好都合なのではないかと、そう思った。これは優子ちゃんと、しっかり向き合う絶好のチャンスだ。


「俺でよければ、いいですよ。まだしばらくいますから。それであの……失礼な質問だとは思うのですが、相手の人は上崎で働いていることを知ってるんですか?」

「はい、知っていますよ。そのことをどう思っているか、まではさすがに分かりませんが。ごめんなさいね、本当は私が行くべきなんですけど」


 想定していたこととは違っていたが、どれだけ願っても、俺はきっと春になる前にここを離れないといけない。紫織さんを探すことを、いつか終わりにしないといけないからだ。だからこそ、俺は準備をしよう。


 自分勝手な考え方だが、いまだに俺は優子ちゃんに紫織さんの面影を探していた。けれど、今の俺に必要なのは紫織さんのことを忘れて、優子ちゃんから離れることである。二人を重ねてしまうのなら、優子ちゃんのことを見送れば忘れることができるのではないか。

 彼女が俺へなにか特別な感情を抱いているのは識っているが、ここで選ぶべきなのは無視することだ。


 紫織さんへの気持ちを昇華できていないのは、恋愛感情の拗らせではないと気がついてしまった。ありふれた恋じゃなく、これは歪んだ執着なのである。どれだけ近づこうとしても、近づこうとするたびに届かなくなる恋。

 見送ることさえもできなかったあの日を終わらせることで、俺はようやく離れることができるだろう。


 お節介だと思われてもいい。邪魔だと思われてもいい。嫌われてもいい。

 私、大垣飛鳥は……菜畑優子をこの町から送り出そう。見送ることが、すべての“始まり”なのだから。

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