第39話 彼女の歩いたこの街を

「なぜ彼女を探しているか。聞いてもいいかい」


 店内には、大将の声が響くばかり。それに、換気扇の引っ掛かりで出る低音が加わって不協和音になっていた。

 ただ、無音ではないのが心地よかった。きっと大将の声だけでは、俺は気が小さくなってしまうだろうから。適度に雑音があるからこそ、掻き消されてしまう声があるかもしれない。


「……富士宮さんは、俺が昔働いていた会社の上司だったんです。頼りがいがあって、質問にはなんでも答えてくれて。でも、ぶっきらぼうで。だからこそ、嫌いになる人も多かったそうですけど」


 思い出してみればみるほど、なぜ俺は彼女を好きになってしまったんだろうという思考のループにはまっていた。

 それまでに好きになった女の人とはどこか違う。どちらかといえば、かなり苦手な部類に入る人。あんな人のことを好きになるなんて、どうかしてるんだよ。

 好きでもない相手に恋愛ごっこなんて持ちかけて、好きでもない相手と夜の街に出かけて、好きでもない相手と寝るなんて。そんなの、ありかよ。


「勘違いなら申し訳ないんだが、お兄さんと富士宮さんは付き合ってたのかい?」

「……いえ。俺の片思いです」

「片思い?」

「はい。俺だけだったんです。仲が良くなってると思ってたのは。だから、愛想をつかれたんですよ。こんなこと、大将に言っても仕方がないことだと思うんですけど、辛かった。辛かったんですよ」


 その瞬間、それまで無視していた自分の感情に、やっと区切りをつけることができたのだと思った。いや、もう我慢ができなかった。誰かに聞いてほしかった気持ちを、ひたすら口に出したかった。

 それが独りよがりのわがままだとしても。たとえ、隣に加奈さんがいたとしても。


「本当に、そう思ってるのか?」

「どういう意味です」


 加奈さんは口を閉じたままじっとしており、静かにジョッキを回しながら眺めていた。まるで、誰かを待っている真っ只中かのように。とても、声をかけられる様子ではないことは、確かだった。


「なあ、加奈さん。もしかして、あのとき言っていた男の子ってのは……」

「大将。それ以上言ったら、許さないよ。私は大将に借りがある。でも、それとこれとは違うわ」

「分かった。じゃあ、お兄さん……って呼ぶのも他人行儀で嫌になってきたな。もしよければ、名前を教えてくれないか」

「大垣です。漢字は、岐阜県大垣市の大垣です」

「そうか。というわけで、大垣さん。富士宮さんが気にしていたのは、おそらくあなたなんだよ」

「はい?」


 よく分からない言い回しに、言葉の意味を読み解く困難さを感じた。もっと直接的に言えないものか。


「私の話になって申し訳ないが、少し昔の話をさせてくれ。妻がいるんだ。気遣いが完璧で、いつだって味方でいてくれた。だから、その当たり前の生活を失ったときの辛さは、思い出しただけでも頭が痛くなる」


 そう話す大将の手は微かに震えていた。きっと、思い出すだけでも辛い過去の話だということは、それだけではっきりと感じ取れた。


「もう知っていると思うが、上崎新地ここで以前、流行り病があった。とんでもない感染力で、もう誰にも止められない。このまま周囲の街にまで広がるんじゃないかと、皆がこの場所を恐れた。そして浮上したのは、隔離病棟。今でも新地の近くに現存している」

「…今でもいるんですか? その病に罹る人は」

「いや、今はもう閉じ込められている。表にある道をあがっていくと、神社があるだろう?」

「ええ。何度が参拝しました」


 神仏習合の文化が根強く残っている、上崎神社。森に囲まれたその風景に惹かれ、旅館に泊まった次の日の朝は、必ずといっていいほど参拝していた。朝に、おはようございますと挨拶をするような感覚だった。


「そこに、あるんだ。平たくいえば、封印されているようなイメージだな」

「つまり、今はもう?」

「ああ。犠牲者が出なかったわけではないが、封じ込めに成功した。けれど、そういった話を信じないやつもいる。ようは、医学的な解決を求める連中だ。流行り病から救うために、製薬会社の協力のもと、新薬開発に協力することになった。その被験者として選ばれたのが……妻だった。かなり初期の段階から罹患していて、なおかつある程度健康体であることから、選ばれた」


 手が震えていた大将は、いつのまにか握り拳を作って苦しそうにしていた。この先の展開をある程度は想像できる状況だったので、話すのを止めてもらおうかと考えた。しかし、必死に訴えるような口調で話し続ける大将を見ていると、そんな失礼な真似はできなかった。

 ふと隣を横目で見ると、加奈さんが涙を流していた。想像すらしたことのなかった彼女の姿に、俺は戸惑いを隠せず『えっ……』と声を漏らしてしまった。


「開発担当の責任者が、林原さんだった。俺はきっととんでもなく期待していたんだ。新薬が完成すれば、妻は元気になるのだと。そのためには、妻の協力が必要なのだと。けれど、一向に薬品開発は進んでいなかった。未知の疫病。日に日に弱っていく、妻の姿。まるで、ずっと悪い夢を見続けているかのようだった。そして、気づけば妻は隔離病棟に移動していた。その一ヶ月後、妻はこの世を去った」

「薬品開発は、間に合わなかったんですか」

「そうだ。最終的に完成したんだが、そのときには上崎に罹患者は残っていなかった。ようは、誰一人試す人のいないまま、戦いは終わったんだ。製薬会社から多額の金が届けられたが、そんなものはどうでもよかった。私はただ、妻を助けてほしかっただけだ。金がいくらあろうと、妻は帰ってこない」


 深くため息を吐き、大将は俺のほうをじっと見た。


「そのあと、富士宮紫織はこの街を訪ねてきた。それまで、ここは東桜と呼ばれていたこともあったが、そのあたりの時期に上崎新地という看板にすべて変わった。皆が、あのつらい日々を忘れたかったんだな。なかったことにしようとしたんだ。でも、客足は戻ってこなかった。一度ついてしまったイメージってのは、残酷なことに塗り替えるのが難しい。一日や二日で変えられるものじゃないんだ」

「けれど、大将。俺はその話をここへ来るまで知らなかった」

「新地に来るようなやつは、特にここは地元の人間ばかりだったんだ。だから、余計に影響がでた。そんな状況を塗り替えてしまったのは、富士宮さんだった。下に行っては宣伝を繰り返して、新規の客を呼び寄せたんだ。初めは彼女の自信満々な言動に疑問をもつ人間ばかりだったんだが、いつのまにか富士宮紫織は上崎新地に馴染んでいた。馴染むどころか、新地全体に新しい波を吹かせた」


 ようやく気持ちが落ち着いてきたのか、大将は表情を和らげて微笑みながら話していた。その姿を見たおかげか、額から流れていた冷や汗がだんだんと止まり始めているような気がした。


「どうしてここまでしてくれるんだと、私はふと彼女に聞いたことがある。そしたら『これは恩返しです。私はある男の子から逃げてきた。逃げた罪の償いとして、ここで働くことにしたの。もちろん、夜の街に育ててもらったからという意味もあるわ。でも、そうね、直接恩を与えられたわけではないから、この場合は恩送りと言ったほうが適切?』と、さも当たり前かのように言ってきたんだ。きっと、彼女なりに覚悟を決めてここへ来たんだろうと思ったよ」

「恩送り……ですか」

「その男の子ってのは、状況から察するに大垣さんのことだろう?」


 どうするべきなのだろう。否定するのは簡単だ。それで、ここまでの話は区切られて、終わる。しかし、それでいいのだろうか。これ以上逃げて、いったいどうなるというんだ。

 過去を忘れようとせずに、受け入れることができれば、俺は紫織さんと向き合うことができるのではないか。


「紫織さんのこと、もう少し聞いてもいいですか」


 否定でも肯定でもない。ありのままを受け入れることこそが、俺にできる精一杯だった。選択肢を選ばないという選択肢を、俺は選んだ。

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