第38話 彼女はどこへ消えた
「大将。そろそろ教えてください。“ここ”でなにがあったのか」
大将は先ほどからずっと、料理の下ごしらえをしていた。俺たちは店に入ったときにすでに置かれていたお茶をすすりながら、その光景を眺めるように座っていた。
「林原さんの前で話すのは少し申し訳ないんだが……。私の妻は身代わりにされたようなものなんだ」
想像していなかった言葉が、大将の口から飛び出していた。
「本当に、申し訳なく思っています」
それまではあまり気にしていなかったが、大将と加奈さんとの間には、それまでは見えていなかった途方もない壁が生まれていた。
雰囲気から察するに、大将と加奈さんの関係はやはり普通ではなさそうだ。今目の前で繰り広げられている言葉のない会話もそうだが、いったいなにがここまで空気を重くさせているんだ?
そういえば、居酒屋に入る前の加奈さんの様子は明らかにおかしかった。
「薄々気づいてはいたけど、大将と知り合いなの?」
改まってそう聞いてみると、加奈さんは再び動揺している様子だった。
いつも落ち着いた感じで、俺のことをどちらかといえば静観しているような人なので、その姿がとにかく異様に見えた。俺の知らない加奈さんが、確かにそこにいる。
「……知り合いというか、ね」
「私から話すよ。というか、林原さん。お兄さんはあのことは知っているのかい?」
「お兄さん? ああ、飛鳥のことですか。いえ、なにも知りません。話したこと、ありませんでしたから」
手元の作業が終わったのか、大将は銀色のトレーに入れた食材を冷蔵庫に入れて、俺たちのほうに目を向けた。
「私からでいいのかい?」
「いいですよ。それを止める権利は、ありませんから」
一連のやり取りを聞いていると、この二人が過去にただ事ではない関わりをもっていたことは、なにも知らない俺でも分かることだった。いや、知らされていなかったといったほうが、彼女にとっては適切だろうか。
「……分かった。それなら話そう。まず、お兄さんはずっとある人を探しているね」
「なぜそれを?」
「林原さんの前で言ってもいいのか分からないが、予定していた取材はもう終えている。そうだろう?」
大将から見れば、俺の行動は怪しかったということだな。
「ええ。まあ、そうです」
「それが誰なのか。聞いてもいいかい?」
「……富士宮紫織。この名前に心あたりはありますか?」
「あるよ」
知らないと言ってくれたほうが、まだよかったかもしれない。だって、その先を知らないで済むのだから。
答え合わせをするほどの心の余裕は、今の俺にあるのか。聞いていいのか?
今までみたいに、俺の想像した紫織さんではなく、大将の口から流れるのは真実の彼女。それを嘘だと言うことは容易い。けれど……。
「それが、なにか関係あるんですか?」
「直接的に関わったとは言えないけどね。富士宮紫織は、確かに上崎新地にいたよ」
富士宮紫織。その名前を知っている人を探していた。
新地内で知らないと言われてしまうと、俺はきっと足を進められなくなる。そう思っていたからこそ、ずっと避けていたその名前。それを、大将から聞くことができた。
同姓同名という可能性は限りなく低いだろう。上崎新地へ来て、『富士宮紫織』という名前で、なにか事情を知っていそうな加奈さんがいる。こんな偶然、起こそうと思ってもかなり無理がある。
「それなら、今どこにいるのかも…大将は知ってるんですか?」
「ああ、ある程度なら。もっとも、あまり定住するような人じゃないから、またどこかへ移っているかもしれないけどね」
ずっと知りたかったはずの、紫織さんの行方。
真実の入り口が見えた途端に、その扉を閉めたくなったのはなぜだろうか。
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