第37話 浮気なんていい度胸ね

 そこにいるはずのない人間が存在していると、考えることを放棄するのが、ごく自然な行為だ。考えてしまうことで、思考が暴走することを防ぐために。そこにあるということを『ない』と誤認させることで、感情を安定させようとする。

 だってそうだろう。彼女はここにいてはいけないはずなのだ。嘘を吐いてまでいる理由は、いったいなんなんだ。


「飛鳥、期限はもう過ぎてるのよ」

「…どういうことだ?」

「現実を見なさいって話」

「もったいぶらずに言ってくれ。まわりくどい話は嫌いなんだ」


 旅館の入り口に立っている彼女の後ろには、菜畑さんが気まずそうに竹ぼうきを持って立ち尽くしていた。声をかけていいタイミングではなさそうなので、あえて話しかけるような真似はしなかった。


「“浮気”なんていい度胸ね」

「はい?」

「隠れてこそこそ…離れていればバレないとでも思ったの?」


 だめだ。完全に俺は目の前で仁王立ちをしている加奈さんに、ペースをもっていかれていた。こっち側に引き込めない限り、悪化する一方だろう。そして、最終的には丸め込まれて終了。

 ここで引き下がるわけにはいかないようだ。


「浮気ってどういう意味だ? 俺にはその言葉の意味が分からない」

「もっとはっきり言わないと、分からないのかしら」

「そうだ。俺は頭が悪いからなぁ」

「“こっち”に帰ってくる日は、とっくに過ぎているのよ。何週間いるつもりよ」

「分からん。算数すらろくにできない人間に、そんな高度な計算を求めてはいけないって習わなかったか。だからこそ、俺はすでにファイルを提出済みだ」


 ちょっと待て。そもそも俺は加奈さんに、原稿の締切日がいつだという話と上崎新地へ行くとしか伝えていない。そして、帰るとも戻るとも言っていない。

 帰ってくる日うんぬんの話は、初めから存在していない話なのだ。まあ、ここで追求しても仕方がないといえば、それまでなのだが。どうせ、聞く耳をもってくれないに決まっている。


「そうしたらね、旅館の従業員にうつつをぬかすライター。“次の題材”はこれにすればいいじゃない」


 言っていいことと悪いことがある。冷静さを保とうとしていたが、おそらく顔に出てしまっているのだろう。菜畑さんが俺のほうを見て、少し怯えるような表情を浮かべていた。

 いったい、どういうつもりなんだ。


「……ここじゃ迷惑になる。場所を変えよう」


 俺はこれ以上、菜畑さんに自分の姿を見せたくなかった。それがどういう気持ちによるものなのかは、はっきりとしていた。

 加奈さんとの言い争いを、彼女には聞かれたくなかったから。あとで時間をつくって、そこできちんと話せば分かってくれるはずだ。いや、菜畑さんに言い訳をする意味はなんだろう。それをして、俺はなにを伝えたいんだろう。


 声が大きかったのか、いつもの居酒屋から大将が出てきた。気を悪くされる前に、さっさとここを離れよう。そう思って加奈さんに声をかけて、上崎神社の方向へ進もうとした。しかし、大将が店の前から俺たちのほうを見て動きを止めていることに気がついた。

 もっと正確にいえば、俺の後ろについてきている加奈さんを見ていた。


「おい、お兄さん」

「なんですか?」

「…後ろにいる姉ちゃんとは、どういう関係だ?」


 やはり大将が気になっているのは、俺ではなく加奈さんのようだった。けれど、その言葉に彼女が反応することはなく、沈黙が続くばかり。

 質問は俺に向けられたものなので、仕方なく答えることにした。


「比較的に仲のいい友人です」

「そうなのか…? 友人にしては、かなり物騒な言葉が飛び交ってた気がするけどな」

「忘れてください。お願いします」


 ずっと黙ったままだった加奈さんのことが気になり、後ろを振り返ってみた。すると、先ほどまでの覇気はどこへ消えてしまったのかと怖くなってしまうほどに、不気味なまでの沈黙がそこにはあった。いったいどうしてしまったんだ。

 こちらのことが気になっているのか、旅館の前からは菜畑さんがほうきを動かす手を止めて、こちらの様子を伺っていた。

 そのことに大将も気づいていたのか、こう続けた。


「二人とも、ちょっとご飯食べていかないか」


 大将は店の中へと入っていってしまった。入るなら勝手にどうぞといった雰囲気だ。

 置いていかれてしまった俺と加奈さん。だが、彼女は顔をこちらに向けようとも話しかけてこようともせず、その場で固まったままだった。あまりに異様だ。

 それはまるで、背中のあたりに見知らぬ冷たい手が当たってしまったかのようだった。


「加奈さん、大将とは知り合いなの?」


 そう聞くと、ようやく加奈さんがこちらを向いた。けれど、その顔は決して明るいものではなかった。あえていうなら、疑いの眼差しがあった。


「えっと、どういう意味よ」

「そのままの意味だ」

「…聞き間違えたかもしれないから、もう一度言ってくれないかな?」


 なんだかやんわりと、間違えをなかったことにしてあげるからもう一度言ってみて、と言われているような気がした。あまり気分の良いものではない。気になることがあるなら、はっきり言ってほしいと常々思っているのだが。

 ついさっきだって、まわりくどい言い方をするなと伝えた。そういう癖でもあるのだろうか。


「だから、大将とは知り合いなのかと聞いた」

「…飛鳥?」

「どうした。俺の言い方が悪いのか?」

「ううん。あの、そのタイショウって人は誰のことかな」


 なにかを隠しているような感じではなく。かといって、とぼけているようなわけでもなさそうで。

 お互いにお互いのことを知っていそうだったので、てっきり加奈さんも大将のことを知っていると思っていたのだけれど。どうやら、俺の勘違いだったようだ。


「この店の店長だよ。さっきまで俺が話していた人。大将は加奈さんのことを知っていそうだったけど、加奈さんは知らないみたいだな」

「え…?」

「ん?」

「そういうことね。それはらなかったわ」


 彼女はそう言ったあとも、変わらず浮かない顔のままだった。しかし、そのままなにかを決めたかのように歩き始めて、暖簾のない居酒屋のドアを開けて入っていった。

 俺に与えられたと思っていた選択肢は、どうやら加奈さんがもっていってしまったようだ。

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