第36話 どうして俺のところへ
「あの子のこと、気にかけてくださっているのかしら」
「いえ、そういうつもりでは……」
ないと言えば嘘になるが、ここで正直に言うのはなんともいえぬ後ろめたさがあった。従業員に一目惚れした客、なんて勘違いを女将さんにされても困るからな。
「まあいいわ。ただ勘違いしていただきたくないのは、優子に身寄りがないのは本当なの」
「勝手な推測なんですが、家族に売られたとか、そういう意味ですか?」
「違うわね。あの子は傷のつかない暴力を受けたのよ。結果的に言えば、実家が実家ではなくなったということかもね。優子は、ずっと一人だったのよ。家族がいないわけではないのよ?」
「というと?」
「……見捨てられたの。それはもう、酷いなんてものじゃなかったわ。忘れもしないあの日。私はいつものように掃除をしていた。そのときに、駅のほうから静かに泣くような声がしたのね」
女将さんは思い出しながら話していたが、その表情はどこか辛そうだった。忘れようとしていたことを、無理やり思い出しているような。そんな雰囲気だった。
「無視するわけにもいかないでしょ? だから私は行ったの。そうしたら、セーラー服姿の女の子がケーブルカーが下りていくのを見ながら涙をずっと流していたのよ。もう、びっくりしちゃって」
「それが、菜畑さんだったと」
「ええ。それで近寄ったのよ。『どうしたの?』と聞くためにね。そのあと、今でも耳にずっと残ってるんだけどね。『お腹が空いたんです。お金はないのに。卵焼きが食べたい』と言って、また涙を流して。声はもう出してなかったわね、そのあとは。けれど、涙はずっと流れたままだった。もう心が痛くて仕方なかったのよ。だから私言ったのよ『じゃあ、私が作ってあげようか』ってね」
「じゃあ、初めは本当にそれだけのつもりだったんですか?」
「なんとも言えないわね。あのときの優子は、どう見てもおかしい雰囲気があったから、これはただごとじゃないと思ってはいたのよ。これも何かの縁だと思って、ご飯を作った。そこで話を聞いてあげようかなと、そんな感じだったの」
見ず知らずの少女と女将さんの出会いは、そんな感じだったのか。本当に偶然訪れて、女将さんが初めに声をかけて、なりゆきで働いた。そういう話だった。
けれど、そこから辞めることなく働き続けているのは、尊敬に値する。
女将さんの話によると、菜畑さんの実家はすでに取り壊されているそうだ。ある日、いつも通りに彼女が家に帰ったところ、家が差し押さえになっていたそうだ。家の中にいた黒服の男に言われたらしい。
それ以前から学費を納めることができないため、親権者にお願いしたものの受け入れられず。バイトで稼いだ金銭も、親権者に取られる。挙げ句の果てに、家に帰ってこなくなった。
わずかに残っていた貯金でなんとか食べ物と住処を繋いでいたが、限界が訪れたため、死ぬつもりで上崎へ来た。
というのが、菜畑さんの篠崎旅館で働く前の話。
「セーラー服のまま繁華街を歩いていたから、よく声をかけられたんですって。深夜に。それで行く着く先が上崎っていうのも、なんとも言えない話だけどね」
「働かせるつもりはあったんですか?」
「初めは本当になかったわ。そりゃ従業員はほしかったですけど、未経験の子を雇うほどの余裕はなかったんです。だから、しばらくしたら申し訳ないけど下りてもらおうって。現実はそう上手くいかないのね。優子はここで働くと言い始めたの。なんとか下りてもらうように話をしていたら、別の子が来てね。『私が面倒見るから、働かせなよ。女将さん』って。そこで、私が折れたのよ」
「別の子って、前に荷物を取りに来た人ですか」
そう言うと、女将さんは一瞬眉間にシワを寄せて、こう返した。
「いいえ。もう一人いたんです」
三人目。菜畑さんと先日のお姉さんと、もう一人。
それが紫織さんであるかを確かめたかったが、ここで本名を出しても通じないだろうと思い、喉まできていた言葉をそっと飲み込んだ。
「無理にとは言いません。あなたはお客様ですから。けれど、もしあの子に会ってくださるなら、明日また来てもらえないかしら」
「それはどういう……」
「優子ね、どういうわけかあなたに会いたがってたんですよ」
女将さんがそう言うなら。そう思い、俺はそれからしばらくのあいだ、篠崎旅館に連泊した。
なにか言い訳をつくりたかった。自分の家に帰らず、上崎に残っていられる理由を。そして、紫織さんの行方を追う方法を。
菜畑さんをダシに使って居続けるのはどこか申し訳なかったが、そんなことを言っていられないのもまた事実だった。
それから数週間が経って変わったのは、菜畑さんのことを指名しなくても、部屋に来てくれるようになったことだった。もちろん俺はあくまでも、友人でもなんでもないので、会計時には指名料を払った。
初めのうちこそ、指名料目当てで来ているだけなのではないか、そう思っていた。しかし、それだけのために何度も来てくれるだろうか。
篠崎旅館には、もちろん俺以外のお客も来る。菜畑さんもそれなりに人気はあるので、指名で来る人もいるのだ。けれど、その人を蹴ってまで俺のところへ来る意味が分からなかった。わざわざ彼女を指名してくる宿泊のほうが、明らかに手元に入るお金は良いはずだからだ。
もっとも、俺のところへ来ても話しているばかりで、いわゆる夜の行為はしないのだ。お金が欲しいだけなら、話さなくても成り立つ客のところへ行くはずだとも考えることができる。
そしていつからか、菜畑さんから話しかけてきてくれることも増えていた。
「飛鳥さん」
「どうしたの?」
「元々住んでいたところは、どういうところだったんですか?」
俺はその質問に、どちらかと言えば田舎寄りであること、電車が家の裏を走っていること、居酒屋以外にも飲食店が立ち並んでいること、スナックやバーが密集している区域があることなどを話した。
自分にとってはありきたりな話でも、彼女にとっては新鮮に感じるのだろう。話の区切りごとに、菜畑さんは相槌や質問などを交えながら真剣に聞いてくれた。
「……私、夢があるんです」
「夢?」
「はい。
俺はそこで、このあいだ女将さんから聞いた彼女の話を思い出していた。きっと、それ以外にもいくつもの経験をしてきたんだろう。そうでなければ、ここに閉じこもり続ける理由はないはずなのだから。
休みの日さえ、上崎から下に行くことはないらしい。彼女にとって外との接点は、あくまでも篠崎旅館なのだ。
そして、その期間中に分かったことが一つ。前に見つけた疫病の記事の続きだった。とはいっても、それから先の日付で新聞に記事が載ったわけではなかった。俺があまり好んで見ようとは思えない、週刊誌の中にあったのだ。
【某新地の病、ついに封印される。関係者に浮上したのは、とある製薬会社の社員だった?!】
「とんでもなく悪化させた、肺炎のような症状がみられる新地での病。患うとかなりの確率で死に至る病ですが、やはり世間にはそれは公表されないまま。このまま迷宮入りするかと思われた真相ですが、本誌の情報網を使い、とある人物と接触することができました。その人物とは、とある製薬会社に勤めるA子さんです……」
この記事を要約すると、某新地というのは上崎新地でほぼ間違いないこと。謎の流行り病を根絶するために、とある製薬会社が関わっていたこと。結局、治療薬は完成せずに被験者が亡くなったこと。罹患していない者に伝染しないように患者は厳重に隔離されていたが、そのときに使った病棟は今も現存していること。
それらがつらつらと載せられていた。
もしこれが真実に近しいのであれば、とんでもない事件だ。さらに、例の新聞記事とこの週刊誌の記事にしか、きちんと書かれたことがないようである。
時期と場所からしても、紫織さんがこれに関わっていないとは、やはり考えにくい。関わっていなかったとしても、その前後にいる可能性がとても高い。
俺は居ても立っても居られず、資料を素早く片付けて上崎へと向かった。
直感的にこの話を少しでも知っているのではないかと思い、ひとまず例の居酒屋に行くことにした。大将なら、その光景や内容まで知っている可能性は大いにあるとみたのだ。
忘れかけていた焦りを蘇らせて、駅から居酒屋に向かう途中だった。篠崎旅館の前に、紺色のスーツ姿で誰かを待っているような立ち方をしている女性がいたのだ。
その姿はどう見ても浮いていた。女性かつ、昼間にスーツ姿の人が新地を歩くなんていうのは、どういう事情でここにいますかと聞きたくなるほどに不自然だ。
「やっと来たわね。なにをしていたの?」
不自然な人には触れないようにしよう。そう思って過ぎ去ろうとしていた。けれど、そんなに上手くいかないようで。
浮いた存在であるその人は、俺のことをまじまじと見ていた。気温の寒さとは明らかに異なる冷気が、皮膚の内側あたりを襲っていた。
「無視はしちゃだめって、小学生でも知ってるよね。ね、飛鳥」
どうやら俺は、上崎新地での“調べ物”に時間をかけすぎていたようである。
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