第35話 結末のない事件

 テーブルの上にあった食器などが片づけられ、部屋の中は束の間の静寂に包まれていた。この街は、夜の時間帯でなければとても静かなのだ。

 静かな空間に響くのは、上崎神社へ向かう道で地元の人とすれ違うときに聞こえる、挨拶だろう。それがここでの当たり前として、定着していることが分かる。


 窓の外に見える景色は、とても美しい。全体がはっきりと見えるわけではないが、奥のほうには和泉湾いずみわんが広がっている。山と海の間に広がる平野部。以前よりも地盤沈下が進んでいるためか、その風景は記憶の中にあるものとは異なっていた。

 その影響で、この国の区画整理は急速に進んでいる。そしてそれに便乗するかのように進められた、旧特別区域の旅館に対しての一斉営業免許取り消し。それが今回の法改正の真実なのだ。


 国のいいたいことが分からないわけではない。しかし、再就職先や金銭等の保証もないままに『ここではもう営業できません。なので、ここを離れてください』というのは、いくらなんでも酷いのではないか。

 そんなことをつい考えてしまうわけだけれど、ある程度の証拠がないと俺の目的は果たせそうにない。



 俺は荷物をまとめて、チェックアウトのために一階へと続く階段に向かった。すると、向かう先から誰かが話している声が聞こえた。聞いている限り、それは少なくとも菜畑さんではない。もう一人は女将さんだろう。

 まだ午前中なので、客ではなさそうだ。昨晩は泊まりは俺だけだったと女将さんが言っていたので、その線も薄い。

 それならば、いったい誰がいるんだ。


「もう、ここもそう長くはないんですよね」

「まあね。そういう時代じゃないってことは、分かってるんだよ」

「そっか。それじゃあ、そろそろ行ってきます。体、壊さない程度に頑張ってね、女将さん」

「はいよ。気をつけてね」


 階段を降り始めたときには、すでに先ほどまで話していたはずの女将さんの相手は、いなかった。どうやら、出て行った直後のようである。


「あの人も上崎のかたですか」


 俺がすぐ近くまできていたことは分かっていたのか、女将さんは言葉を少し詰まらせながらもこう続けた。


「え、ええ。そうよ。もう出ていってしまったけれどね」

「なにかあったんですか?」


 聞いてもいいことだっただろうか。しかし、もし話せないようなことなら断りを入れてくるはずだ。そう思った俺は、女将さんの言葉を待つことにした。


「……元々ね、あの子もここで働いていたんだよ」

「ここって、この旅館という意味ですか?」

「そうです。嫁ぎに行ったのよ」

「ああ……なるほど」


 結婚するために、新地を離れる。そんなに珍しい話ではない。特に今の世の中では逆風が吹き続けているためか、離職率が上がっているらしい。

 そうなると、よりこうした特飲街が姿を消していくのも頷ける。世間の目と、環境と、人手不足。バラバラにみえる要素が重なりあえば、波は倍々に高くなっていくものだ。


「それで荷物を置いたままだったから、取りにきたの」


 きっと新しく住む家に引っ越しでもしたんだな。相手は、その人が新地で働いていたことを知っているのだろうか。人によっては、こうした場所で働くことを『穢れた商売』だと言うものもいる。

 もっとも、そんなことを言いながら遊びに来るようなやつが、一番信用できないわけだが。


「いろいろ……大変そうですね」

「こればっかりは仕方ないわ。募集をかけなくても女の子がいた時代じゃないですもの。今は、募集をかけても電話すらこないのよ。長期間雇えるわけじゃないから、もう半ば諦めもついてるけれど」


 昔ながらの……といえば聞こえはいいが、実際は旧式の営業体系が残ったままの骨董品。今の状態がなくなれば“旅館”としての営業はできなくなる。同じ場所への復帰も不可能であるため、閉業をせざるを得ない。

 どんなに足掻いても、上崎新地の一旅館として残ることはできないのである。



 俺は旅館を出て、再び上崎神社へと来ていた。森林に囲まれているこの場所は、落ち着くために適している。これから先の取材などをどうするか。

 はっきりいって、今の時点で紫織さんに関する情報はほぼ皆無。収穫はゼロ。

 本筋の資料集めはなんとか進めることができているので、なんとか形にはなりそうだ。


「どうすりゃいいんだろうな」


 資料集めが終わってしまえば、俺は帰らないといけない。それ以上残る意味がないというのと、次の仕事が待っているためだ。

 時というのは、敵であり味方でもある。刻一刻と迫る期日に、俺は間に合わせなければいけない。

『納期を守れない奴は、なにも守れない』

『明らかな嘘には、真実を混ぜてはいけない』

 これは師匠の言葉だ。二つのことを並行している今の状況を見たとしても、きっとそう言うに違いない。

 それになにより、あまり長引けば怪しまれかねない。結末さえ分かれば怪しまれたところでどうでもいいかもしれないが、どちらかといえば“過程”のほうが気になっている。だから、まだ勘づかれるわけにはいかないんだ。



 そこからの一週間は、上崎のことをあえて忘れるために走り回った。

 各市町村に点在する図書館へ行き、過去の新聞記事の読み漁り。旧特飲街からの地区ごとの移転により新設された住宅地での、住民への聞き込み。都心部にある、深夜の繁華街への取材など。

 正直なところ、空振りに終わった案件も多かった。けれど、数を打てば当たるという考えのもと粘った。そうしてようやく『それ』らしき新聞記事を発見したのである。


【繁華街を中心に、謎の疫病流行か】

『先月からいわゆる夜の街を中心に、肺炎のような症状を訴える人が急増している。

 東桜町保健所によると、初期症状はかなり軽く、風邪と遜色無いとのこと。ただし、時間が経つごとに症状は悪化、稀ではあるが死に至ったケースもある。既存の薬剤等では効力がないため、現在は隔離病棟を使って罹患りかんしたと思われる患者を物理的に留めているといった対応をしています。

 とのこと。』


「こんなの、記憶にないな……」


 改めて見返すと、この記事があったのは地方紙。そのほかでは少しも触れられておらず、これでは俺が知らないのも無理はない。つまり、どういうことだ。

 その日以降の朝刊、夕刊ともにじっくり見てみたが、それらしき記事は一切存在していなかった。

 この記事がある日付が、約三年前。ということは、紫織さんがいてもおかしくはない。まだ確定しているわけではないので、あくまでも推測だが。


 上崎新地に関連する新しい情報は手に入ったものの、紫織さんに関するものはやはり皆無だった。やはり、あの人たちに直接聞くしかないのだろうか。どうしようもないときの最後の手段としてとっていたのだけれど。ここまできたら、そうもいってられないか。

 念のために、先ほどの記事を複写しておいた。数少ない資料として、十分有力な物だろう。



 ポケットから携帯電話を取り出して、すぐにあるところへ電話をかけた。もうかなり陽が落ちているので、ゆっくりしている暇はない。


『……お電話ありがとうございます。篠崎旅館でございます』


 この声は……女将さんだ。久しぶりに聞いたその声に、俺はなぜかほっとしていた。とても心地よい。


「あの、今日泊めさせてほしいんですが。空いてますか」

『はい、空いております。お一人様でしょうか?』

「そうです」

『夕食はどうされますか? 準備もできますが』

「大丈夫です。朝食だけお願いします」

『かしこまりました。最後に、お名前を伺ってもよろしいですか?』

「大垣です」

『ありがとうございます。それでは、お待ちしておりますので。失礼いたします』


 電話を切り、俺は空を見上げた。

 中心街からは離れているからか、星が綺麗に見えていた。あいにく天体には興味がないので、どれがどれなのかはさっぱりだったけれど。霞んでいない空を見られるのは、何日ぶりだろうか。

 そんなことを考えながら、図書館の近くにあるラーメン屋の暖簾をくぐった。



 上崎新地に到着し、寄り道をせずに旅館へと向かった。ガラス戸を開けると、間もなく女将さんが玄関まで来てくれた。

 実家のような安心感という言葉がある。その言葉の意味を、俺は理解できない。その感覚を知らないからだと、勝手に思っている。けれど、もしそれに近い感覚ならば、これなのだろうと思うことができた。


「いらっしゃいませ。やっぱり、あのときの大垣さんでしたか。ようこそお越しくださいましたね」

「ええ。お久しぶりです、女将さん。あの、菜畑さんは?」


 今日も菜畑さんが出迎えに来てくれるものだとばかり思っていたので、無意識にその姿を探していた。だが、見回してもそれらしき人物の影はなかった。

 そもそも、俺が知っているこの旅館の従業員は二人。女将さんと菜畑さんだけなので、いればすぐに分かるはずだ。


「今日はお休みをとってるんです。休みといっても、ここにはいるんですけどね」

「ということは、住んでるんですか」

「ええ、そうですよ。では、部屋に案内しますね」


 あまり聞くべきではなかったのか、すぐに別の話になってしまった。

 案内と言われたので、もしかしてこのあいだと違う部屋なのかと思っていたが、同じ部屋だった。ほかの部屋はあまり使っていなさそうなので、別に構わないのだけれど。


「どうかしましたか?」

「いえ、大丈夫です」


 気が緩んで顔に出てしまっていたのか、女将さんが心配そうな表情でこちらを見ていた。すみません。そういうわけではないんですよ。

 部屋の中はすでに就寝できるように、布団類の準備が整っていた。本当に気がきく女将さんだ。特になにも言っていなかったはずなのにな。


「あの、まだ上崎のことを調べてるんですか?」


 あまりに唐突な質問に、俺は拍子抜けした。女将さんからそのような言葉が出てくるとは、思ってもいなかったからである。どちらかといえば、初対面のときにかなり嫌な顔をされたので、それらには触れないようにしていたのだが。


「……はい。それなりに」

「そうですか」


 なぜそんなことを聞いたんですかと、こちらから質問をしたくなるほどに、女将さんは淡白だった。もっと違う答えがほしかったのだろうか。

 そう思いつつ部屋にある座椅子に腰かけると、女将さんがこう続けた。


「もしよろしければ、お茶でもいかがですか」

「ありがとうございます」

「…では、申し訳ないですが付いてきてくださいますか?」


 てっきりこの部屋でお茶を淹れてくれるという意味だと思って返事をしたのだが、どうやらそういうわけではないみたいだ。

 俺は立ち上がって、女将さんの後をついて行った。階段を降りて一階に戻り、そのまま階段横にある廊下を進んだ。すると、女将さんはあるところで歩みを止めてふすまを開けた。ふと見上げると、木の板が柱の部分に貼ってある。字が滲んで見えづらいが『応接室』と書かれてあるようだ。


「自由にかけてください。私はお茶菓子を持ってきますので」


 そう言って、女将さんは部屋から出て行った。部屋に取り残された俺は、どうしてこうなったのかをひたすらに考えるばかりだった。

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