第3節 絡み合う糸

第34話 シオリさんって誰ですか

 悪い夢を見ていた。とんでもなく、悪い夢を。

 性転化現象によって、女であることを受け入れざるを得なかった過去の夢。

 お姉さんと出会い、女であることを振る舞うようになる過去の夢。

 自分が女であることを認めるために、他人を傷つけた過去の夢。


 夢の中で見た景色は、まるで俺のことを責めているかのようだった。


 そしてそれらは、綺麗に研がれた包丁で腹部に刺されるかのように、切れ味は抜群だった。不思議なことに血は出なかったが、痛みは消えなかった。それもそのはず、切り口がなかったのである。

 切り口はないけれど、痛みは一向に消える気配がない。傷口がないので、どうすればこの痛みを軽減できるのかが分からない。対処のしようがなかった。


 時間の感覚が、薄れていった。一秒が一分に。一分が一時間に。そして、一時間が一日に。

 そう感じてしまうほどに、痛みによる苦しみは悪化していった。


 まるで、出口のないトンネルに閉じ込められてしまったかのように。

 いや、ここでは“二度と出ることができない、出口のないトンネルへ迷い込んだ”といったほうが適切かもしれない。



「…さん? 大丈夫ですか?」


 混濁する意識のなかで、誰かが誰かを呼ぶ声が響いていた。その声が誰を呼んでいるのかは分からず、俺はまどろみのなかを彷徨っていた。


「ちょっと、ねえ?」


 体が揺れている。肩のあたりになにかの力が加わっているので、誰かが自分の体に触れているのか。

 だんだんと意識がはっきりしてきた。目を開けると、心配そうな顔で紫織さんが俺のことを見つめている。これはおかしい。おそらく、俺はまだ夢の中にいるのだろう。


「紫織さん。もう大丈夫ですから……」

「シオリさんって、誰のことですか?」


 夢の中での会話が成立したことに驚き、俺は完全に目が覚めた。

 急に体を起こしたためか、横を見ると座っていた女の子がきょとんとしていた。


「あの。驚かせないでください」


 そう言って、まるでそこにいるのが当たり前かのような佇まいをしている少女は、菜畑さんだった。しかし、こうして見ていると、ますます紫織さんに見えてくるので不思議だ。

 喋らずに洋服を着ていれば、紫織さんと完全に見分けがつかなくなってしまうのではないか。


「あの。じっと見られると困ります」

「ごめん。えっと、菜畑さんだったよね」

「はい、そうですが。どうしましたか?」


 彼女の目を見ていると、より気まずく感じた。

 これはまるで、寝起きのはっきりとしていないときに、新しくできた彼女のことを元カノの名前で呼んでしまったかのような気まずさだ。

 下手に言い訳をするのもおかしな話なので、ここはいっそのこと触れずにいたほうが賢明だろうか。


「なんでもないよ」


 こう言って収めるしかない。


「そうですか……。それにしても、どんな夢を見ていたんですか…? かなりうなされていましたよ」

「うなされてた? 俺が?」

「ほかに誰がいるんですか。……随分苦しそうでしたよ。汗もかいていましたし」


 とぼけるつもりだったが、どうやらそれはできそうにない。

 あんなに恐ろしい夢を見てしまうと、うなされた原因はそれだとはっきり分かる。どれも思い出したくない過去であり、記憶なのだから。封印して鍵もしっかりかけたはずなのだけれど、ふいに襲ってくることがある。

 だが、その夢でうなされているかどうかというのは、自分だけでは気づかないことだった。今回の場合は、気づかれてしまったのだが。


「……誰かに襲われる夢を見てね。多分、それのせいだ」


 彼女に本当のことを言う必要はない。


「じゃあ、シオリさんって誰ですか?」


 だから、そう聞かれたときに俺はとても困った。隠す必要はないけれど、あえて話す必要もない。そもそも、旅館の従業員に対して話すようなことではないだろう。

 そう思いつつも、どこか後ろめたさを感じていた。紫織さんとは別人だと頭では分かっていても。


「忘れてください。言い間違えただけですから」


 とても酷い言い訳をしたという自覚はあった。俺は菜畑さんの顔を見てから、紫織さんと呼んでしまったのだ。夢か現実かの区別がついていなかった時点で、不用意な発言をするべきでなかったのかもしれないが。

 これはどちらかといえば、菜畑さんではなく紫織さんに対する申し訳なさだった。


「……そうですか。それでは私は朝食の準備をしますので、一旦失礼しますね」


 そう言って、菜畑さんは部屋を出ていった。今のうちに顔でも洗っておこう。

 洗面所へ向かうと鏡があったのでさりげなく覗いてみると、とんでもなく酷い顔をしているやつがいた。


「これは酷いな」


 不気味な笑みを浮かべる自分が情けなくなった。こんな顔をしていれば、心配するのはおかしなことではない。もしかすると、菜畑さんは純粋に俺のことを心配してくれていたのだろうか。彼女にも悪いことをしたかもしれない。



 冷水で顔を洗って意識をはっきりさせて部屋に戻ると、布団が片付けられた代わりにテーブルが中央に移動していた。


「女将さん。おはようございます」

「あら、大垣さん。おはようございます。準備がちょうど終わりましたよ」


 並べられていたのは、焼き魚や煮物、お漬物などだった。近頃は不摂生な食事ばかりしていたので、こんなにしっかりしたものを食べるのは久々だ。


「こちらは湯豆腐になります。下の火が消えてからお召し上がりください。おひつには白ごはんが入っていますので、ご自由にどうぞ」

「ありがとうございます。…あの、菜畑さんはどちらへ?」

「菜畑は下におりますが、どうされました?」

「あ、いえ。それならいいんです」


 朝食の準備をすると言って出て行ったので、俺はてっきり菜畑さんがここへ戻ってくるものだとばかり思っていたのだ。もう少し話す機会があると思っていたので、寂しかった。


「やっぱり優子が運ぶべきだったかしら。今日の料理は、ほとんどあの子が作ったものなんです。張り切って作っていたの」

「そうだったんですか……」


 彼女の作ったものだと知る前と後では、不思議と見え方が変わった。俺はどこまで単純なやつなんだ。これではまるで……。


「どうしたんですか? 私、なにか変なこと言ったかしら」

「え?」

「…大垣さんが笑っていますが、そういう意味じゃないですか?」


 そう言われて親指と人差し指で口角のあたりを摘んでみると、見事に上がっていた。これはさすがに恥ずかしい。


「いや、そういうわけじゃないです。勘違いさせてすみません」



 菜畑さんの手料理が食べられると思うと、俺は我を忘れて箸を手に取っていた。食べ終えたら、一旦ここを離れてネタ集めの続きをしよう。そう思いつつ、心の中で彼女に謝るべきかを考えながら静かに食べ進めていった。

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