第33話 承認欲求
あの頃にお姉さんから教わったことは、今でも役立っているものもある。
例えば、男っぽく見えないようなメイクの仕方、話し方、対応の仕方など。そして、他人の騙し方さえも。すべて言葉ではなく感覚的に教わったので、俺が他人に伝えるのは難しい。
そうしてすっかり体にそれらの感覚が染みついた時期、お姉さんは俺に『もうここへ来ないほうがいい』と言ってきた。突然のことに戸惑いつつも、どうしてかと聞いてみると、あまりに当たり前で現実的な言葉が返ってきた。
「だって、あなたはこっち側の人間じゃない」
教わってきたのは、あくまでも女装をするための話であって、現実で女として生きていくための知識ではない。そんな冷静な話をされた俺は、ただただつらくなるだけだった。
ここは結局、俺がいていい場所ではないことは、分かってはいた。お姉さんも、実際そう言っていたのだから。
「でも、ずっと今まで一緒にいたのに」
「もう…あなたも高校を卒業する歳でしょう?」
「はい、一応もうすぐ卒業です」
「大学からは“女”として生活するんだよね」
お姉さんに向かって『なんでそれを知っているんですか』とは、言い出せなかった。俺が“この場所”に初めて来たときから、気づいてはいた。性別がどうこうという話以前に、おそらく俺みたいな子どもが来るところではないということを。
「前にも言ったと思うけれど、それならなおさら、ここには来ないほうがいい。……私はもう、ここに来る理由がないから。これから先、ここへ来てもいないよ」
ここが俺の居場所だと思っていた。お姉さんは、女装に苦労する俺を見て、馬鹿にせず文字通りの“先生”となって、親切に教えてくれた。
いろいろな過去話や失敗談を混ぜて、たばこを吸って、ときに俺のことを馬鹿にしながら、ここでの不思議な時間を過ごした。当たり前かのように過ごしていた日常は、あっけなく消えてしまった。
大学生になってしばらく経つと、俺の横にはいつからか知り合いがいることが増えた。そのうちの一人が、今でも関係がある藤村あずさだった。
「自分で鏡を見ても、男にしか見えないんだよねえ」
「……そんなこと思ってたの」
「あずさはどう思う?」
「あのさ、正直そんなこと考えたこともなかったのね。だから、別におかしなところはないよ、としか言えないかな」
彼女こそ、俺が元は純粋な男であるという過去を知らずに知り合った人であった。だからこそ、過去を打ち明けることで今の関係が壊れてしまったらどうしようとか、もしかすると軽蔑されるだろうなとか、そんなことばかりを以前は考えていた。
そもそも、いつも隣にいる女が『実はわたし、元は男なんです』とか言い出しても意味がわからないだろう。
関係が壊れてしまう怖さを吹き飛ばす勢いで、俺は唐突にその事実を打ち明けた。結果的になにも起きなかったのだが、打ち明けたあとのほうが、厄介だった。
明らかに、気を遣われてしまう場面が増えたのだ。もちろん、思い込みというのもあるかもしれない。けれど、そのうちのいくつかはきっとそうなのだ。
昔話や服装、恋愛観、家族の話など。ありとあらゆるところに性別という概念が関わっていることを、俺はそのことで知った。
俺が女性として暮らせるようになったのは、あのお姉さんのおかげ。けれど、あのお姉さんの影響で、女性として日常生活を不自由なく暮らせてしまっていた。だからこそ、不安だった。
本当にこれでいいのか。女に見えているか。周りから見て、違和感はないだろうか。どこかおかしな部分はないだろうか。
『こちら側にいても、大丈夫なのか…?』
その日もいつも通りに大学の講義が終わり、昼休みになった。かばんの中にある携帯を見ると、お知らせが来ていた。きっとあの子からのメールだろう。心当たりはたくさんあった。
『やっほ。今日って何限まで?』
『四限まで』
『じゃあ、そのあとで会おうよ』
『分かった。いつものところで』
『はーい』
気がつくと、俺は女の海に溺れていた。いつからだろう。明確にいつからかということは覚えていない。
誰からも許されない行為だと薄々分かってはいたものの、女の人から女扱いをされてしまう心地よさを知ってしまうと、もう勢いは止まらなかった。恋愛をするなんてことを知らないまま、女の人に抱かれることを先に知ってしまったのだ。それも、自分が女の子として認識された状態で。
「くすぐったいってば。ねえ」
「んんー?」
「聞こえてるでしょ…って、もう…ねえってば」
見つけた場所は、底なしの沼だった。足を踏み入れたときにはもう手遅れ。抜け出すことはできそうになく、ズブズブと沈んでいくだけ。
上を見上げると時折見える手をとると、その子まで沼に入ってきて、同じように沈んでいくばかり。沼に沈んだあとは、もうお互いの存在を確かめ合うことでしか、息ができない気がした。
「飛鳥ちゃんってさ」
「うん」
「他の子とも“こういうこと”してるの?」
「どうして?」
「だって、このあいだしたときよりも“慣れてる”」
「そうかな」
だって、ほかにも同じような人がいるんだから。そりゃ慣れるよ。
ベッドの上で言われる言葉なんてものは、
「あっ、ちょっと。押し倒すのは反則だよ」
「そういう気分にさせたのは、そっちだからね」
指や足が絡まるたびにある感触、そして耳元にあたる息遣い。熱。それらは言葉とは違い、演技をすればだいたいは分かる。大袈裟であればあるほど、それはそうなる。
だからこそ、この温もりだけは間違いではないと信じたかった。
顔を見られたくないのか、その上に手を置いて、手の甲のあたりを甘噛みしていた。
「やっぱり、あんたは“タチ”のほうが似合ってる……よ」
「いや、タチよりネコでいたほうが好きだよ」
「自分の理想と現実は必ず一致するわけじゃない…って、ねえ、話してるときにするのはだめ…ひゃっ」
どうしても攻める側になると、積極的になってしまうのが俺の悪い癖。
正直なところ、男の人とするよりも女同士でしたほうがこういうのは気持ちがいい。だからもう、このときには女の子としかしていなかった。同性であれば面倒な演技なんてしなくていいし、お互いのツボを探すことだって容易だった。
この行為に明確な終わりはあってないようなもので、体力さえ続けば一晩中することもあった。翌日に響くので、積極的にすることはなかったけれど。
こうして抱き合っているときには、俺は自分の存在を認めることができた。それの影響もあってか、恋愛感情の伴わないまま関係をもってしまう、ということを何度も経験した。
自分の内側をさらけ出しているように見せかけて傷をえぐって、それのかさぶたを舐めてもらう。それが俺の日常だったのだから。
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