第31話 記憶上の彼方、地平線の向こうへ
すっかり目が覚めてしまっていた俺は、視線を隣にいる女の子のほうへ向けた。疲れていたのか、あのあとすぐに眠ってしまった彼女は、とても穏やかな表情をして寝息をたてていた。
こうして黙っていれば、紫織さんにそっくりなのにな……。
人間という生き物は、自分にしか興味がないそうだ。服にしても装飾品にしても、当然ながら他人から見る自分というのが基準となっている。もちろん好みの問題もあるけれども、それは優先順位の一番上ではないだろう。
なにを言いたいかというと、記憶というのはとても曖昧な要素だ。
例えば、俺は紫織さんとの関係がなくなるまで、なぜだかそれ以前に付き合っていた彼女のことを誰かに重ねることが多かった。ふとした瞬間の仕草や行動、服装など、あらゆるところで少しでも当てはまっていれば、息が苦しくなるほどに。
はっきりいって、馬鹿だと思う。自分でもそんなことは分かっているのだが、頭は分かってくれない。
そんな苦しみから解放してくれたのは、紫織さんだった。けれど、誰かに頼るということは、その“誰か”に苦しみの対象が変わっただけだった。
奈々さんに対しては、特別な感情をもつことはなかった。夜を共にしてもなお、仲のいいお姉さんとしてしか見ることができなかった。だからこそ、奈々さんから『夜一緒に寝た関係なのに』と言われたときには、とても申し訳なく思った。
いくつか距離が近くて緊張したことはあったにせよ、恋愛的な感情をもったことはなかったからだ。強いていうなら、一人でいたくないときに頼っていた場面はあったかもしれない。
今思えば、悪いことをしたな。
だからこそ、今とても困っているのだ。
俺は、紫織さんと一緒に夜を過ごしたことは何度かある。しかし、そのどれもが紫織さんの家かカラオケ店だった。ようは、こうしてホテルや旅館等で過ごすなんてことはしたことがなかった。
けれど、こうして菜畑さんとは夜を同じ布団で過ごしている。状況が違うといえばそれまでだが。あくまでも俺は、彼女にとって客でしかない。そこに深い意味はない。
結局のところ、紫織さんと俺の関係は最後まではっきりしなかった。いや、はっきりさせなかったといったほうが適切だろうか。恋愛ごっこを引きずったままだ。
悶々としていた感情にケリをつけてくれた奈々さんには、今でも感謝している。それが結果的に奈々さんを傷つける結果になってしまったが、いつかは奈々さんから離れなければいけないと、俺はずっと分かっていたはずなのだ。
そして、記憶上の人物に誰かを重ねてしまうのは、いつしか元カノではなく紫織さんになっていた。
重ねてしまった人物と深く関わることは、ずっと避けてきた。そうすることで、相手に迷惑をかけてしまうのはいけないことだと理解していたからだ。けれど、そのルールを破って俺は菜畑さんと一緒にいる。
あくまでも、従業員と客。はっきりした関係をすでに構築できているからこそ、安易に手を出してしまったといわざるを得ない。
時間が経つごとに、季節が移ろうごとに、俺の記憶の片隅にいる“紫織さん”は美化されている。実際にはそんなことなかったはずなのだが、彼女がまるで聖人のように接してくれたかのような記憶しか残っていないのである。
きれいに蒸発してしまった彼女を追う方法は、もうないのか。そんなことを考えているうちに、俺は夜の街のことについて調べるようになっていた。そうして、ある言葉を思い出したのだ。
それはある日の真夜中だった。なかなか眠れない俺に対して、紫織さんは『どうでもいい話なんだけどね』という前置きをして、こんなことを言った。
『もし今の仕事を辞めることになったら、次は上崎新地に行くつもりなのよ』
当時の俺は、それがなにを意味するのかがまったく分からず、ただただ苦笑いをするだけだった。いまだに紫織さんがそこまで夜の街で働くことにこだわっていたのか、なぜ上崎という場所なのか。まるで見当がつかなかった。
そもそも、その土地の名前も新地という言葉の意味さえも分からなかったのだから。
けれど、上崎新地へ来たからといって、それらの問題が解決するとは思えない。紫織さんがここで働いていたという証拠や“富士宮紫織”という名前を明かして働いていたかどうかという根本的な情報は、ゼロに等しいからだ。
……なにをしてるんだろう、俺は。
もし紫織さんの痕跡を見つけてしまったら、あとを追うのか?
もし紫織さんのことを知っている人と会ったら、どうするんだ?
もし紫織さんと会ったら、どうなるんだ?
もし紫織さんと会えなかったら、どうするつもりなんだ?
仕事という名目で、会いたい人に会えるかもしれない。その可能性にかけて、俺は無理やり仕事を作った。それができたときは、純粋に嬉しかった。取材という後ろ盾があれば、通りすがりの一般人として聞くよりも、深い情報を得ることがきっとできるはずだという妄想をしていたからだ。
だが、冷静に考えてみると違っていた。紫織さんがここに来ていなかったとしたら、なんの意味もない。空想上の話なら、取材に来なくとも想像で本が書ける。馬鹿馬鹿しい。
明日から先、彼女に関する情報がなにもなければ、きっと俺は後悔する。
生きているか、死んでいるか、それだけでもいい。
もし叶うなら、紫織さんの声をもう一度聞きたい。
忘れたいと願ったはずの記憶がいざ薄れていくと、なぜか得体の知れない恐怖に襲われたのだ。薄れていく記憶とは反対に、心の傷はえぐられていくばかり。
それにしても一日中、体がなにかに締め付けられる感覚があるのは、やはり息苦しいな。自分で決めたことではあるけれど、これをやめるには上崎から離れる必要がある。ずっと泊まるわけにもいかないだろうし、それもいい選択なのかもしれないな。
上崎の夜は、まだ長そうだ。
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