第30話 あなたはあの人に似ている

 これは俺自身がもっている偏見なのだが、こういった旧特別区域ではいまでも和服を着ている人が多いのだろうか。

 昭和から正化と時代を経ていくごとに、生活様式は確実に変わってきたはずだ。しかしここにいる女性は、先ほどから和服ばかりなのだ。いったいどうなっているのだ。それとも、そんなことを気にする俺がおかしいのか。


「あの……」

「はい?」

「そんなにじっくり見られると、恥ずかしいです」


 意識していなかったが、どうやら菜畑さんのことを見つめるようなことをしていた。自分のことながら、なにをやってるんだ。


「そういうつもりじゃなかったんですけど、すみません」

「いえ、大丈夫ですよ。見られること自体は、慣れていますから。それに……」


 そう言いながら、彼女は傘の持ち手を俺のほうに動かした。


「私の肩が濡れないようにしてくださるのは嬉しいですが、それであなたが濡れるのは本末転倒です」

「気を遣わせて、すみません」

「いいえ、ありがとうございます」



 さすが上崎というべきか、先ほどまでいた居酒屋からは数十秒で、目的の旅館に到着した。下から登るのは不便だが、登ったあとは案外過ごしやすいのではないだろうか。もっとも、コンビニ等はないので、そういった便利さを求めるなら別の話になる。


「着きましたよ。傘、ありがとうございました」

「いえ、こちらこそわざわざすみませんでした」


 菜畑さんは俺が持っていた傘を受け取り、そのまま閉じた。そして、俺に傘の雫が当たらないように配慮してなのか、傘を立てかけてから引き戸を動かした。

 入ったあとですぐに違和感を覚えたが、その正体はこの場所が昼間に訪れた旅館と同じ場所だということからだった。

 引き戸を開く音で気がついたのか、奥のほうから女将さんらしき人が小走りで駆けつけてきた。


「いらっしゃいませ……あら」


 女将さんは目をパチパチとさせて、少し驚いた様子だった。まさか昼前に訪ねてきたやつが、こうしてまた戻ってくるとは思っていなかったのだろう。

 俺は社交辞令がとても嫌いだった。そんなことを言うくらいなら、別にわざわざ口にしなくてもいいだろうと思うほどだ。だからこそこうして、また来たわけなのだけれど。


「お客さんってあなたのことだったのね」

「先ほどは失礼しました。今度は客としてお世話になります」

「それなら大歓迎だわ。ひとまず、宿帳やどちょうに記入してくださる?」

「分かりました」


 宿帳というよりも専用の用紙と鉛筆を渡された俺は、手の甲から落ちた水滴で用紙をわずかに濡らしながら、記入欄を埋めていった。名前と住所欄が最低限の項目だろう。全部を埋める必要は……ないな。


「これでいいですか?」

「はい、問題ないわ。今日は一人もいないから、ゆっくりしていきなさいな。ほら優子、早くあがって部屋に連れていってちょうだい」

「はい! 分かりました」


 優子。女将さんがそう呼ぶ少女は素早い動きで傘を片付けて、俺のことを誘導してくれた。

 居酒屋では『菜畑』と名乗っていたので、合わせるとフルネームになるのだろうか。つまり、菜畑優子なばたけゆうことなる。ただこういったところでは、源氏名を使うことが一般的なので、菜畑さんもおそらくそれにあてはまるのだろう。

 身を守るために嘘を吐くのだから、そこを指摘するのは失礼な行為だ。


 二階にあがると、そこには何部屋かあり、そのうちの一つの明かりがすでについていた。大将が連絡してくれていたので、そのときに準備を済ませていたのだろう。急な来客に対応してくれるのは、ありがたい。


「お部屋はこちらです。ここにあるものは自由にご利用ください」

「はい」


 荷物を置いて窓側の障子を開けると、薄暗い上崎新地の石畳に街灯が反射していた。雨が降っているせいか、より輝いて見える。このあと、もし晴れたら写真でも撮りに行こうか。


「……あの」

「はい?」


 景色に意識をとられていた俺は、部屋の中にまだ菜畑さんがいることを忘れかけていた。所作が丁寧なためか、ほとんど物音がしないのだ。時折、布擦れの音がするくらいである。


「もし失礼でなければ伺いたいのですが」

「どうしました?」

「どこからいらしたのですか?」

「東京のほうからです」

「そんな遠くからここへ? 大変だったでしょう?」


 それまでの元気な声とは反対に、落ち着いた低い声で心配された。そこでようやく、まともに彼女の顔を目に入れた。すると驚くことに、彼女の姿は紫織さんそっくりだったのである。

 ただし、暗闇で気づかなかった理由でもあるが、声がまったく違っている。そのためか、顔があまりはっきりと見えていなかった居酒屋では、そんなことにこれっぽっちも気がついていなかった。

 そして先ほど外を歩いていたからか、毛先が少し濡れているのが遠目でも分かるほど、彼女の髪の毛は整っていた。おそらく、丁寧に手入れしているはずだ。まるで紫織さんを幼くしたような、そんな雰囲気だった。


 こんな偶然があるのか。目の前で起きている事象を受け入れることが難しく、俺は彼女の姿から目を離せずに立ち尽くしていた。だんだん異変に気づき始めたのか、不審者を見る目でこちらを見て、だんだんと離れていった。


「えっと、どうされましたか…? 私、なにかよくないことを言ってしまいましたか」

「いや、その……」


 上手く言葉にすることができず、なにを言っても不審者には変わりないよなと考えながら、俺はまだ彼女から目をらせずにいた。

 そのとき、下から誰かが階段を上がってくる音が聞こえてくることに気がついた。階段を上るとすぐにこの部屋が見える構造になっていたので、俺たちの様子は奥から丸見えだった。


「お客さん、申し訳ないけどお夕飯はないので……って、なにしてるんですか」

「あ、いやその。すみません」

「女の子に手をつけるなら、追加料金いただきますよ……まあ、そのあたりはお客さんのほうが詳しいと思いますが」

「……」


 菜畑さんのことを見つめたまま動けず、そこに女将さんがやってきた。これでは、なにか勘違いしてくださいと言っているようなものじゃないか。


「否定しないってことは、それでいいの?」

「……ええ、それでお願いします」


 紫織さんとは違うと分かっていても、彼女からなかなか目を離せずにいた。菜畑さんは理由も言わずに見ている俺のことを少し不審に思っているようだが、その点は本当に申し訳ないと思う。記憶との乖離かいりがあまりに酷く、戸惑ってしまったのだ。


「それじゃあ優子、泊まりでお願いね」

「はい……分かりました」

「それで、お夕飯はないけど大丈夫かしら」

「大丈夫です。先ほど済ませてきたので」

「そうですか。では、ごゆっくり」


 途中から事務的に話を進めていった女将さんが、階段を降りていったのを音で確認したのち、菜畑さんはこんなことを言い始めた。


「本当によかったんですか? 私で」


 計算しているようには思えないが、彼女は上目遣いをして俺のことをじっと見つめていた。これは仕方がない。紫織さんとは違って、彼女は背が低い。意図せずとも、こうなってしまうのだろう。


 実際のところ、あまりお金に余裕があるわけではないので、できる限り出費を減らしたいのは本音だった。けれど、ここで彼女から離れるのは少し寂しいような気がした。旅館の従業員に向かって、こんなことを考えるのはおかしい。とはいえ、財布にそれがなければ意味がないので、あとで隙をみて確認しておこう。


「ああ。ちょっと、話し相手がほしかったからね」

「私、特に面白い話とかはできませんよ?」

「それもそうか」


 そういえば、女将さんから旅館のどこになにがあるかはまったく聞いていないが、それは菜畑さんからするということなのだろうか。まあ、朝まで一緒に過ごすことになったみたいなので、そうさせてもらおう。


「あの、お風呂に入りたいんですけど」

「分かりました。お風呂は下にあります。着替えは持って行きますので、先に場所を案内しますね」

「お願いします」


 そこで俺はある問題に気づき、菜畑さんに確認してみることにした。


「菜畑さん」

「はい」

「お風呂、入りに来なくていいからね」


 もちろん旅館によるが、泊まりできた客とは部屋に入った瞬間から“その時間”は始まっている。それゆえに、お風呂であったとしても例外ではない。要するに、女の子と混浴するのが前提になっているところもあるのだ。ましてや、俺は女の子を頼んだ立場なので、なおさらその可能性が高い。


「ですけど……」

「本当に大丈夫だから。…もしかして、今日はまだお風呂入ってないの?」

「いえ、お客様から連絡が来る前に済ませていたので」

「それならいいよ。すぐに出るから」

「かしこまりました。そこまでおっしゃるなら」


 頭の上に疑問符を浮かべつつ、菜畑さんは着替えとやらを取りにいった。今のうちに入るとしよう。



 お風呂からあがったあとは、特に何事もなく部屋でまったりと過ごしていた。今回の上崎新地への訪問はあくまでも取材目的なので、その周辺にあるところにも出向こうと思っているのだ。そうすれば、交通費も節約できていいだろう。

 そんなことを考えながら持ってきていた書籍を眺めていると、後ろからの視線を感じた。


「あの」

「どうしました?」

「肩揉みとか、しましょうか?」


 彼女がなにを言っているのかが分からずに、頭の中でその言葉を駆け巡らせていた。そして、俺はごく当たり前のことに気がついた。おそらく、手持ち無沙汰なのだ。


「それは大丈夫だけど、菜畑さん」

「なんでしょうか」

「もっと言葉崩してもいいよ。かしこまってると疲れるでしょう」


 こんなに手を出さない客というのも、変な話だろう。さらに変なのは、泊まりで女の子と一緒に過ごしているということだ。なにもする気がないのに、仕事を頼んでいるようなもの。悪いことをしていると気がついた俺は、振り返って彼女の寂しそうな目を覗き込んだ。


「悪かった。布団を敷いてくれますか」

「あ、はい」


 部屋中央に鎮座していたちゃぶ台を隅に動かして、布団を準備してくれた。

 そのあとは、寝ると蛍光灯が眩しいという話になり、明かりを消して二人で布団に入った。本当になにもしないのはさすがに悪いので、少しだけ話をすることにした。

 普段はどんな客が来るとか、旅館はどういう料金体系なのかとか、そういう他愛ない話だけ。当たり障りのないものに絞って、彼女の話を聞いた。聞けば聞くほど、菜畑さんが紫織さんではないことははっきりした。たとえ加奈さんが彼女の声を聞いたとしても、これは別人だと言うだろう。


「本当に、こんな感じでいいんですか?」

「どういう意味、それ」


 それまで天井を見たまま話していたが、ふと横に体を向けて顔を見てみると、ちょうど外からさしこむ街灯が彼女の顔をほんのり照らしていた。そのおかげか、表情が曇っていることが分かった。


「だって私、なにもあなたにしていません」

「飛鳥でいいよ」

「え?」

「俺の呼び方。お客さんとかあなたとか、そういうのむず痒いから」

「そうですか…? では、飛鳥さんと呼びますね」

「それでいい」


 初対面の相手とはいえ、菜畑さんから他人行儀な呼ばれ方をするのは、どうしようもなくもやもやとしていた。


「泊まりのお客様で、そのままの意味で“寝るだけ”なんて初めてです」

「そうか。貴重な体験だね」

「はい。でも、なんだか悪い気がします」

「いや、いいんだ。さっきの詫びのつもりだから。菜畑さんにすごくそっくりな人がいて。変な雰囲気にしちゃって、ごめんね」

「そんなこと、気にしなくてもいいですよ」


 ただ、呼び捨てを提案してから気がついたが、彼女がさん付けで呼んでくれることになって、内心ほっとしていた。もし彼女から『飛鳥』と呼ばれてしまうと、優子と紫織さんの境目をさらに見失ってしまいそうだ。


「もう遅いし、寝ようか。おやすみなさい」

「おやすみなさいませ、飛鳥さん」


 目を閉じると同時に、俺は思考を閉じようと努力した。けれど、すぐ隣にいる菜畑さんのことを考えてしまい、“泊まり”を選んだのは失敗だっただろうかと朝まで悩んでいた。

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