第24話 諦めさせてください
奈々さんから届いていたメールを開くと、かなり端的な文章が書かれてあった。
『仕事終わりにごめんなさい。会って話がしたいです』
今までの奈々さんなら、多少は要件以外のこともあわせて送ってきていた。しかし、今回のは違う。それだけのことを聞くために、わざわざメールを送ってきたとしか思えなかった。奈々さんの電話番号は知っているので電話すれば要件自体は済みそうだけれど、きっとそれは違うのだろう。
俺は、奈々さんにどうして呼ばれるのかくらいは察しがついていた。けれど、今の状況では会いたくないというのが本音だった。会えば、本当のことを言わないといけなくなりそうだから。
『いいですよ。奈々さん、今どこにいるんですか』
『鮎川駅改札口のコインロッカーの前だよ』
いつから、そこで待っていたんだろう。もう三月になったとはいえ、陽が落ちると途端に寒くなる。直接声を聞いたわけじゃないけれど、きっと寒いのを我慢していたに違いない。
屋根はあるが、風の通りがとてもいい場所なのだ。
『分かりました。すぐ行きますから、もうちょっと待っててください』
きっと、期待されている。それがどういう部類なのかはまったく予測できないけれど、奈々さんからこんなに積極的な連絡が届いたことはなかった。
信号待ちをしていると、また携帯が震え始めた。奈々さんからの催促メールかと思い開くと、今度は見慣れてしまった紫織さんからのメールだった。アドレス欄には“紫織さん”と書いてある。あまり意識したことはなかったけど、いつから下の名前で登録しているのだろう。
『こんばんは。ごめんね、返事が遅くなって。
忘れ物をしたつもりがないのだけど、具体的になに?』
『休憩室に置き去りになっていた、紫織さんのパンプスです』
そう返事をすると、すぐにメールが届いた。
『それなら大丈夫。白い靴箱に入ってるよね?』
『はい』
『捨てちゃって。もう要らないから』
俺はどこかで、もう一度会えるかもしれないと思っていた。この忘れ物を届けるという口実で。しかし、その希望はあっけなく消えてしまった。まさか、考える間もなく捨てていいといわれるとは思わなかったからだ。
返信する気にもならずに鮎川駅へまた進んでいると、再び携帯が震えた。
『今の家を出ていくのは、今週の日曜日になったよ。もうあそこに来ても、私はいないからね』
俺が返信するのを躊躇っていると、紫織さんからのメールが先に届いた。それを見て、俺は余計に返事に困った。もうなにもいえないことを、思い知らされたからだ。
きっと、このまま黙っていることしかできない。なにをいったって、全部意味のないことなのだから。紫織さんは、ここから離れることを選んだ。そして、俺にはそれを止める資格がない。それだけのことなのである。
「お待たせしました。ごめんなさい、遅くなってしまって」
「いいんです。もう少し待ってみて来なかったら、電話してみようかと思っていたから。それで繋がらなかったら、自動的に無かったことにしようかなってね」
いつもと同じパンツスーツ姿の奈々さん。けれど、いつもと違って髪を結んでいなかった。しばらく会社での彼女の様子しか見ていなかったので、少し新鮮に感じる。
茶色の毛が、風とともに綺麗に揺れていた。
「とりあえず、どこかに入りますか? ここじゃ寒いですよね」
「そうね」
立ち話をするつもりはなかったので、すぐ近くにあるご飯屋に入ることになった。お酒を飲む気分でもないね、という話になったからである。店内は掘りごたつになっているので暖かく、奈々さんは目を細めて暖かさを実感しているようだった。
注文をするときに、例のこと以外のなにか他のことを考えている余裕などなく“おすすめ”と大きく書かれてあったものを頼んだ。一品ずつ手作りを徹底しているらしく、しばらくお待ちくださいと言われたが、無言の時間が続くことは想像するに
「聞いたよ。飛鳥と富士宮さんのこと」
沈黙を破ったのは、奈々さんだった。話題はあまりに直接的で、容赦ないなと思った。
「飛鳥が、わたしのこと好きじゃないことは……知ってるつもり」
「……うん」
「だからもう一度、チャンスが欲しい」
「チャンス?」
チャンスという言葉の意味が、いったいなにを意味しているのか。それはきっと、俺に関することなのだろうということは分かっていたけれど、具体的になんなのか。それは分かりたくなかった。
今の俺には、荷が重いような気がするから。
「そんなに嫌な顔、しなくてもいいじゃないの」
「してないです」
「もし、本当に望みがないって分かれば……そのときは身を引くわ。だから、次の日曜日に私とデートしてほしいです」
「…それで、いいんですか?」
我ながら、かなり卑怯な質問だ。奈々さんが俺のことをそういう意味で好きだということは、言われなくとも分かる。その前提で、彼女はデートを申し込んでいるんだ。
今の俺は、彼女のことを受け入れられない。過去のこととはいえ、紫織さんと関係があったということを知った前と後では、感じる印象も雰囲気も違う。
これが、もしそのことを知る前であれば、俺は奈々さんと付き合えたのかもしれない。けれど、それは起こり得なかっただろう。なぜなら、奈々さんと向き合うことをせずに、俺は紫織さんへ感情を逃してしまったのだから。
「どういう質問よ。……ごめん、ちょっとお手洗いに行ってくるね」
俺は奈々さんのいない間に、そっと紫織さんへの返信をすることにした。それはいたって単純で、本当はなにも送りたくなかった。けれど、メールを読みましたよという証拠のようなものを送りたかった。
自分でも、なにをしたいのかが分かっていなかった。ただなんとなく、紫織さんとの繋がりをもう少しもっていたかったのかもしれない。
『分かりました。もしまた機会があれば、会いましょうね』
目の前にあったお冷の氷が溶け、カランという音が響いた。
そのあと、日付が変わったあとも紫織さんからのメールが届くことはなかった。
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