第23話 降水確率90%

「それじゃ、始めるか」


 部長が仕切り役で、紫織さんのお別れ会が始まった。

 重たい空気ではなく、どちらかといえば「違うところでも頑張ってください」というような雰囲気だった。


「じゃあ次は、大垣だな。一言どうぞ」

「はい。富士宮さん、部署が別でプロジェクトで関わることが多かったですが、仕事面で本当に頼りにしていました。計画書を推敲して下さることが無くなると思うと、少し寂しいです」


 少しどころじゃない。仕事で関わる場面は企画会議くらいしかなかった。だからこそ、週一回のミーティングはかなり貴重な時間だった。それが、もうなくなってしまうなんて、想像したことがなかった。


「新しいところでも、富士宮さんらしいスタイルで、頑張ってください。以上です」


 ちなみに、これはあとから知ったことだけれど、紫織さんの退職理由は俺が思っていたものとは違っていた。

 俺はてっきり、紫織さんが自分から退職すると言ったのかと思っていた。けれど、実際は課長が退職するように告げたらしい。理由は、副業がバレてしまったこと。課長が偶然立ち寄った店に、紫織さんが働いていたらしい。

 それが本当に偶然なのかは分からない。ただ、紫織さんが働いていたという事実は、覆しようがなかったとのこと。元々、この会社は副業禁止なのだ。


 そこから広がったのは、紫織さんが副業をしていたことよりも、夜の街で働いていたことだった。明らかに女子社員からの目線が変わっているような気がしていたけれど、どうやらそれが原因だったらしい。



 会社からの帰り道は、昨日までよりも暗く感じた。そういえば、今日は降水確率が90パーセントってテレビでお天気お姉さんが言っていた気がする。

 俺はいつも折り畳み傘を鞄に入れていた。通り雨がきたり、夕方から雨だったときに使うためだ。


「傘なんて……」


 けれど、入れていた折り畳み傘を出すことはなく、俺はひたすら歩いた。

 面倒くさいというよりも、濡れたかった。濡れていく髪の毛が肌にあたり、なんともいえない気持ち悪さがむしろ気持ちよかった。上着に水分が吸収されていき、どんどんと重たくなっていく感覚もあった。

 周りから見れば、とんでもなく不気味だったと思う。


 歩いていることさえも面倒で、気づけば暗闇の雨の中を走っていた。自分の家に向かって、ひたすら濡れながら。寒いとか冷たいとか、そんなことは頭の中になかった。なにも変えられなかったことが、悔しかった。



 それからしばらく経ち、俺は頑張って紫織さんのことは忘れようとしていた。いつまでも引きずっていても仕方がないと分かっていたから。どこかできちんと区切りをつけないといけない。

 夜寝る前に思い出して枕に顔を押し付けたり、出勤途中に紫織さんがいないか見回す癖もやめないといけない。だって、彼女はもうここにいないのだから。どんなに忘れずにいても、もう戻ってこない。


「大垣」

「はい?」

「富士宮と仲良かったよな?」


 富士宮。紫織さんのことか。

 仲が良いという言葉が少し引っかかる。会社内では極力会わないようにしていたはずなので、課長が俺と紫織さんの仲を知っているはずがない。


「ええ、まあ」

「噂で聞いたんだが、大垣は富士宮と付き合ってたのか?」

「…え?」

「いやな、自販機の前で噂話が聞こえてね。なんでも、かなり親しい仲で恋人同士だったんじゃないかって」


 噂話? いったい誰が?

 そもそも、俺と紫織さんのことは誰にも言っていないはず。そして、誰も知らないはず。


「そういうんじゃないです」

「そうか。まあ、そんなことはどうでもいいんだ」

「はぁ」

「富士宮のやつ、忘れ物しててな。これなんだが」


 そう言いながら課長が差し出してきたのは、ずっと手に持っていたビニール袋だった。中には靴箱らしきものが入っているみたいだ。


「……なんですかこれ」

「富士宮の仕事用の靴だよ。休憩室に置きっぱなしになっているのを、掃除中に見つけたらしい。それで、大垣が富士宮と仲が良いと聞いたから連絡してくれないか」

「わたしがするんですか」

「そのほうがいいだろ」


 課長はそう言うと、周りを見回してこう続けた。


「それで、大垣は富士宮と付き合ってるのか?」

「……付き合ってないです。課長ってしつこいんですね」

「おい、まあそう怒るなよ」

「怒ってないです」

「いやな、女性同士で付き合うことも珍しくないらしいから、どうなのかと思ってな。時代だねえ」


 お前になにが分かるんだ。

 その言葉をぐっと堪えて、俺はビニール袋を引き取った。ここで課長になにを言ったって意味がない。そんな分かりきったことを掘り返すようなことをしても、ここに紫織さんが帰ってくるわけでもなんでもない。



 自分の席に戻り、これからどうするかを迷っていた。連絡といっても、俺は紫織さんの電話番号を知らない。そうなると、彼女にメールを送ってみるしかない。仕事中に送るのもどうかと思ったけれど、課長から頼まれたのでこれでどうこう言われても困る。


『久しぶり、飛鳥です。紫織さん、会社に忘れ物をしていたみたいでわたしから返してって課長に言われてて。会えそうな時間ある?』


 メール。俺はそれが苦手だった。

 送ったとしても、すぐに返事が来るとは限らない。そもそも、紫織さんが今もこのアドレスを使っているかどうかは知らない。そしてなにより、返事をされずに無視されてしまう可能性だってある。

 直接会って話している感覚に一番近い、電話のほうが楽に感じる。決して得意なわけではないけど。相手の話し方でなんとなく感情を感じ取ることができる電話であれば、すぐに返事がもらえる。

 相手の表情が見えないこと。それが一番苦手だ。


 少し待っても返事が来ないので、きっと紫織さんも忙しいのだろう。そう思って、無理やりながらも気持ちを切り替えた。



 仕事が終わり、俺は例のビニール袋を持ち帰っていた。結局、紫織さんからは仕事中に返事が来ることはなかった。このままなんの連絡もなければ、いっそのこと捨ててしまおうかと考えながら駅まで歩いていると、携帯が震えた。


「こんな時間に誰から……あ」


 受信箱を開くと、一番上に表示されていたのは『立花先輩』だった。

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