第22話 失恋と呼ぶには

 俺はそのとき、どうしようもなく怒りの感情が湧いていた。紫織さんなら、もっと自分のことを分かってるんじゃないかって、そう思っていたせいなのかもしれない。

 なにを考えていても、どうして紫織さんは突き放すようなことを言ってきたんだろう、それだけが脳裏から離れずにこびりついていた。


「なにか飲む?」

「……いい」


 自分のことながら、どこまで彼女に対する態度が冷たくなってしまうんだろうと思い、ある意味で怖かった。そして、明らかになったこともある。それは、彼女が俺に対して執着心がまるでないということだ。

 心のどこかで、俺は希望をもっていた。実は好意があるんじゃないかと。言葉にしていないだけなんじゃないかと。

 その両方が満たされていないと分かった途端、俺の中でなにかが弾けてしまった。


「紫織さん」

「んー?」

 ベッドの上で寝転がっている彼女を後ろにして、俺はこう呟いた。

「もうここには来ないほうがいいかな」

「急になに言ってるの」

 燃えていた木に向かって、バケツの水をかけられたようだった。こんなふうになってしまうと、すぐに元に戻せる気持ちになれそうにない。いつ元通りになるのかさえ、定かではなかった。

「わたしがここにいられる理由が、なくなったから」

 奈々さんとの一件があったことを、俺は紫織さんに伝える気になれなかった。限りなく裏切りの行為であると、識っているからだ。今の俺では、きっと奈々さんから恋人になろうと提案されれば、受け入れてしまうだろう。

 紫織さん以外の人なら、誰でもよかった。

「勝手にすればいいじゃん」

 彼女が俺のことを引き止めることはないと知っていた。それでも、ささやかな抵抗を試みたかったのだ。物事を冷静に判断できないほどに、俺は目の前のことだけに集中してしまっていた。

「明日……辞令が出るんだけど。飛鳥にはもう話しちゃうね」

「うん」

「私、この会社辞めることにしたの」

 あまりに唐突な発言に、俺は動揺していた。別部署にいるので、会社では意図的に会わないようにすることができるとか、今後は二人で会うこともやめようと思っていた。だが、それ以上のことを彼女は口にしていたのである。

「どうして」

 思っていることを決して俺には言ってこなかった彼女が、別れ際になってようやく心を開いてくれたように見えていた。なぜ今頃そんなことをするんだろう。心の中に霧がかかったようだった。

「今している仕事は両方辞めて、転職することにした」

「そう……なんだ」

「全然違うところに引っ越しして、ここをどうするかは考え中。家賃がかなり安いから、残しておいてもいいかなと思ってるの」

 今さら、なんでそんな話を俺にしてくるんだろう。今後会う機会は、もうないと思っているのだけれど。それとも、会うことがないと分かっているからこそ、そんな話題を出してくるんだろうか。


 妙な気まずさを感じていた俺のことは知らん顔で、紫織さんは上着のポケットからなにかを取り出していた。

「これ借りてたイヤホン。返すね」

「ありがとう」

「ごめんね。ケース失くしちゃった」

 手のひらに乗せられていた白いイヤホンを取り、カバンの中に入れた。

 このイヤホンは少し前に紫織さんが欲しがっていたので、俺が買った携帯についてきた付属品を貸していた。貸していたことを忘れていたくらいに、なんの思い入れもなかった。

 だからこそ余計に、今返さなくてもいいのにと思った。

「いいよ」

 後腐れなく、この関係に終止符を打ちたかった。そうでなければ、きっと俺はズルズルと関係を継続させてしまう。

「もう少し、一緒にいたかったね」

 そんな願いも届かず、紫織さんは俺のことを気があるかのように、そっと付け加えた。こういった場合、どうするのが正解なのだろう。

 真正面から受け止めたとしても、途中で心が折れてしまうのは目に見えている。最善と最良が同じ方向を向いているとは限らないのだ。それならば、初めから聞こえなかったふりをしよう。だってそれは、本心ではないはずだから。


「まだ帰らないの?」

「終電に乗って帰る」

「そう」

 窓の外からは、電灯の光が差していた。ほとんど明かりのない部屋の片隅で、紫織さんは換気扇をつけてタバコを吸っていた。

 これまでの俺は、この景色を眺めるだけだった。しかし、今日は違った。もしかすると、もう二度と見れなくなってしまうんじゃないか、そんなことを考えながら見ていた。

 そもそも、紫織さんと会うのが最後かもしれない。

 最後なら、思い切って気持ちをぶつけてみよう。どうなったって、この先は会うことがないのだから。

「紫織さん、好きな人いる?」

「いるよ」

 心臓に針が刺さっているような痛みを覚えた。

 考えてみれば、それは不思議なことではなかった。俺はあくまでも、紫織さんと表面上の付き合いをしているに過ぎない。ふとした瞬間に、その糸が切れてしまうことは、重々承知していた。

 それがいつやってくるか。それが訪れることから、目を背けていただけなのだ。

 紫織さんは、誰のことだって好きにならない。そんな幻想を抱いてしまっていたことを、はっきりと理解することができた。そう分かった瞬間、俺の頭の中に残ったのは悔しいという感情だった。

「わたしの知ってる人?」

「そうだね」

「名前、聞いてもいい?」

 断られるつもりはなかった。教えてくれると信じているからこそ、俺ははっきりと疑問を投げかけたのである。

「林原……だよ」


 奈々さんは俺のことが好きで。紫織さんは加奈さんのことが好きで。俺は、紫織さんのことが好きだった。

 どうして、こうも上手くいかないんだろう。せめて、加奈さんの中に残っている昔の俺が消えてくれればいいのに。


「じゃあね、紫織さん。ありがとう」

 もうこの部屋に来ることはないだろう。ワンルームで生活感のない、この殺風景な部屋には戻れない。

 俺だけが勘違いし続けていた日々には、もう帰れない。

 玄関から出るとき、後ろを振り向くことはしなかった。それは過去に縋ることが許される状況でなければ、してはいけない行為だと分かっているから。紫織さんの未来に俺はいないし、俺の過去に紫織さんはいない。


 駅までの道は、いつもよりも静かになっているような気がした。日付が変わる少し前は、こんな雰囲気なのだろう。紫織さんがそばで一緒に歩いていたから、気づかなかっただけだ。

「終わったなあ」

 叫びたかった。好きになってしまった相手は、好きになってはいけない相手でしたと。

 俺と紫織さんは、どうやっても恋人関係にはなれないと思う。友達以上の関係にすらなれなかったのだから、到底無理な話だ。紫織さんのことが、ずっと気になっていた。だからきっと、一緒にいれば紫織さんも同じ感情をもってくれるとどこかで思っていたのかもしれない。


 どうすれば、紫織さんは俺に振り向いてくれたんだろう。

 音楽を聴こうと思い、イヤホンを探していると、先ほど紫織さんが返してくれたものが出てきた。なんだか得体の知れぬ違和感を覚えた俺は、ふとイヤホンに鼻を近づけた。すると、そこからはいないはずの紫織さんの香りがした。

 一度だけ借りたことのある、紫織さんの香水。それと全く同じ香りがついていた。きっと、服にかけるときについてしまったものだろう。


「こんなの、ずるいよ……」

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