第21話 もう止められない
「それで、今日はどうしたの?」
カウンターに座り、俺はハイボール、紫織さんは生ビールを飲んでいた。前でカクテルを作る音が響いている。
「いや、なんとなくね。特に理由はないけれど、そろそろ会っておきたいなと思って」
普段なら口にしないだろう言葉に、俺はおかしくなってしまい、笑ってしまった。
「紫織さんでも、そういうときあるんだね」
「そこまで笑わなくてもいいじゃない。私だって人間だし、寂しくなるときはあるよ」
違うよ、紫織さん。俺が言っているのは“そういう”意味じゃない。そんな普通の答えなんて、求めてないんだよ。
紫織さんを見ていると、こんなことを思ってしまう。例えば、もうすぐ目の前からいなくなってしまうんじゃないかとか、そういうことだ。恋愛という名前で縛られないなら、俺はどうやって彼女のことを引き留めればいいのだろう。
灰皿に溜まっていく吸い殻を眺めていると、それが溢れてしまえば帰らないといけなくなるんじゃないかとか、そういう考えなくてもいいことを頭の中で思い描いている瞬間があった。
「ほかにも、こうして会う人がいるの?」
きっと、こうして会うのは俺だけじゃない。紫織さんの副業のことも脳裏によぎったが、それはそれだ。そもそも、彼女はモテる。容姿がよく、頭もいい。そんな人を周りが放っておくわけがない。
「いないよ。私、そこまで
「そ、そっかぁ」
俺はなんてことを聞いているんだろう。もしかして、案外ヤキモチをしやすいのかもしれない。
もしそういう相手がほかにもいたとして、俺はどうしようもできない。なぜなら、彼女は彼女であり、自分は自分だからだ。自分の思い通りになんて、できるはずがない。
「飛鳥も、そういうときあるの?」
「うん。あるよ」
「それなら、私に電話してくれればいいのに」
人の気持ちを知らないで、そんなこと言わないで。俺がどんな気持ちで、さっきの質問をしているか、紫織さんはきっと知らない。教えたくもなかった。彼女に抱いている恋心を知られたら、この関係は今度こそ終わってしまう。
「だって、紫織さんいつでも忙しそうじゃん」
「そりゃ仕事してるからね。昼と夜働いてたら、仕方ないじゃない?」
「仕方ないけどさ。電話……しづらいよ」
「それなら、さっきの私みたいにメールすればいいじゃない」
「そうだけどさ」
好きな人にメールを送ることが、こんなに難しいとは思わなかったのだ。今までどうしてやりとりしていたのかを忘れてしまったかのように、文章を書いては消して、書いては消してを繰り返していた。結局、下書き保存したメールは送れないまま日が進む。
それに対して、電話なら話さざるを得ない状況を作り出せるので、比較的簡単に思える。もちろん、発信ボタンを押すまでの葛藤はあるけれど。
「さっき、聞こえちゃったんだ。飛鳥が加奈と話してるところ」
「林原リーダーのこと?」
「そう。幼馴染なんだね」
「幼馴染っていうのかは微妙だけどね。わたしがまだ中学生だったときに、お世話になった人だったんだ。それが、どうかしたの」
そこで気がついてしまった。紫織さんが、加奈さんのことを呼び捨てにしていることに。
「加奈、飛鳥のこと好きだよ」
「え?」
「実は、私と加奈は高校が一緒だったんだよ。クラスは別だったけど、話すことは多かった。そこでね、よく男の子の話をされてたのよ。初めて会ったはずなのに、他人とは思えなかったって」
俺のことだろうな。加奈さんと会ったのは、最初で最後のあの公園のときだけだった。それ以降、こうして会社で巡り合うまで一切接触することはなかった。
そんな加奈さんと紫織さんが、まさか友達だったとは思ってもいなかった。
「なんていうかね、拗らせてるよ加奈は。会社での飛鳥の存在を知ってから、メールで相談が来るようになったからね。『どう接したらいいか分からない』とか『なんて呼ぶべきだろう』とか、本当にどうでもいいことばかりで悩んでるのよ」
「そうだったんですか」
「思い出って、美化されるものだからね。時間が消化されると同時に、悪い記憶が消えていくの」
紫織さんのいう意味ありげな言葉は、立ち止まることがなかった。もやもやとした気持ちだけで心がいっぱいになっていた俺には、その言葉を吸収する余裕はなかったのである。
好きな人から、別の人が俺自身に好意があるという話を聞くことが、こんなに辛いものだとは想像すらできなかった。
振り返ってみれば、そんなことは想像するに容易いものだ。奈々さんとの一件のあとで、紫織さんと結んだ擬似恋愛の期間や、関係に名前を付けずに付き合う期間は、両方紫織さんからの好意がないことを意味するもの。
紫織さんから見た俺は、恋愛対象にすら入っていなかった。それが今、はっきりと分かったのである。
「それじゃあ、加奈のこと任せたよ」
「任されましたよ」
鮎川駅の改札口で、俺たちは戯れていた。
少しでも印象に残ろうとして、テンションを上げていた気持ちも、ちょっとしたスキンシップも、全部なんの意味もなかったんだ。俺、どこまでいっても馬鹿なんだな。
「あの子、結構寂しがり屋だからさ。かまってあげてね」
それは俺も同じですとは、口が裂けても言えなかった。紫織さんに抱きつきたい。どちらにも傾いていない、今の時間がずっと続けばいいのに。いや、元はといえば紫織さんが加奈さんの気持ちを、本人のいないところで披露するのがいけないんだ。
そんなことをしなければ、俺はずっと片想いを続けることができたのに。
「紫織さん。こっち向いて」
ごめんなさい。こんなに不健全なことをする人間だとは、ついこのあいだまで思っていなかった。誰に謝ってるんだろう。
踏むべき手順を全部飛ばしている感覚だった。もう、後戻りできないことを確信した。進めてしまった駒は、元に戻せない。きっとそんなことがどうでもよくなるほどに、俺は怒っていた。
ほんの一瞬。唇が触れたことが夢だったかのように、俺はすぐにそれをやめた。優しく、ふれただけだった。
「このあと、紫織さんの家に行ってもいいよね」
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