第20話 素直になれないから

 加奈さんと別れて、俺は電車に乗るために鮎川駅へ向かっていた。すると、鞄の中に入っていた携帯が震えていることに気づいた。こんな時間になんの用事だろう。

『飛鳥、久しぶり。よかったら、どこかで話さない?』

 それは、見慣れた文面のメールだった。この書き方をするのは、俺の知っている中ではたった一人だけしかいない。いつも紫織さんは、金曜日の夜によく連絡をしてきていた。

 平日は仕事、休日は土日だけという生活を送っているので、紫織さんに会ってゆっくりできるタイミングがどうしても金曜日の夜なのだ。だからこそ、彼女は気を遣ってこの時間にメールを送ってくることが多かった。けれど、最近は忙しかったのかメールが来ることはなかった。もう忘れられていると思っていたのだが、そういうわけではないみたいだ。

『久しぶりだね、紫織さん。これから?』

 送信元に書いてある名前を見た瞬間に、冷や汗をかいてしまったほどに、俺は気持ちが重かった。ひどい話ではあるが、俺はどこかで紫織さんとは会うことはないと思っていたのかもしれない。

 これは思い込みにすぎないだろうが、紫織さんが俺のことを留めておく意味が分からないのだ。安心感や包容力を求めるなら、もっと適切な子がいるはず。なぜ、今になって連絡をしてきたのだろう。

『うん。都合悪いかな』

 もしかして、俺のことが好きだったりするのだろうか。

『大丈夫だよ。鮎川でいい?』

 そんな馬鹿なことはないな。


 待ち合わせ場所に着くと、そこには見覚えのある姿があった。メールだったので分からなかったが、鮎川の近くでメールを送ってきていたようだ。会社の近くなので、メールを返信してからあまり時間はかかっていない。しかし、見る限り紫織さんはずっと前から待っていたかのような様子だった。いつまでも待たせるのも申し訳ないので、駆け足で近づいた。

「お待たせ。久しぶりだね、紫織さん」

「飛鳥、久しぶり。会社では会ってるけど、きちんと話すのはいつ以来だろう」

 同じ会社ではあるが、別の階で働いているため、あまり会うことがない。強いていうなら、自販機コーナーで見かけることはあるけれど。そこまで頻繁にあることではなく、狙って会えるわけではない。そのせいか、紫織さんの態度が妙によそよそしく感じた。

「ほんとにね。待たせちゃってごめんね」

「別に気にしなくていいよ。飛鳥、明日は休みだよね?」

「そう。土曜日だから、休みだよ」

「それなら、今日はゆっくりしようか」

 俺はそう言いながらタバコを吸っている彼女を見て、喜ぶべきなのか考えていた。そして考えるよりも先に、空気中に漂っているタバコの匂いが、なぜか嬉しかった。メールや電話でのやり取りではなく、目の前で顔が見える距離に紫織さんがいるという事実を、ようやく実感できたからである。決してタバコの匂いが好きなわけではない。

 タバコを吸っている時間だけは、紫織さんのことを眺めていても違和感がないということを知ることができた。誰からの邪魔もなく、タバコの火がある限りそれは終わることがない。そのせいか、タバコの火を消す仕草を見るのはあまり好きではない。どちらかといえば、時間を強制的に進められる気分だった。

「じゃあ、バーにでも行こうか」

 彼女と繋がることができるのは、なんだろう。心では、いつまで経っても繋がることはできない。なぜなら、紫織さんは俺のことが好きではないからだ。本人に聞いたわけじゃないが、そんなことは聞かなくても分かる。分かっているからこそ、今の状況がある。これ以上近づくことなんて、できるはずがない。

 諦めの気持ちが大きくなっていたときに交差点の前へ着き、あることを思いついた。それはとても単純で、さりげなく繋がる方法だ。信号待ちをしているうちに、勢いに任せれば問題ないだろうと考えた。もしなにか聞かれたら、答える準備は万全だ。感情的になることはあまりよくはないが、今だけは許してほしい。数秒後の自分に対して謝り、自らの右手を広げて紫織さんに近づけていった。

「ん? どうしたの、飛鳥」

「信号、青になったよ」

 反対側から流れてくる人波に、俺たちは手を繋いだままで進んでいった。それほど人が多かったわけではないが、二人で進んでいくという感覚に、なぜか気分が高揚していた。それはまるで、ずっと触れていなかった感情の欠片を手にいれた落ち着かない子どものようで、恥ずかしくもあった。

「いつまでこうするの?」

 信号を渡り切ったあと、俺は手を繋いだまま歩みを止めなかった。止めてしまうと、この感覚が離れていってしまうことを察していたからだ。

「嫌だった?」

 気持ちが昂っていたが、一気に吹き飛んでしまった。聞くよりも前に、彼女の手が離れていったからである。手のひらで感じていた温もりが消え、代わりに入り込んできたのは冷たい風だった。

「急にされるのは、ちょっと」

「そっか、そうだよね。ごめんなさい」

 自分が満足するためにしたこととはいえ、こんなにも嫌な顔をされるとは思っていなかった。彼女のことを考えていなかった俺がよくないのだけれど、なにがそんなに嫌なのだろうか。

「まあ、そんなに謝られることでもないんだけど。…手繋ぎたかったの?」

「繋ぎたかった。でも、紫織さんがそこまで嫌がることだとは思ってなかったよ」

「えっとね、そういうことじゃないから」

 彼女の手が、俺の頭の上にあった。下を向いていた俺はそのことに気がつかず、顔を上げようとしたときに髪の毛が沈んでいた。

「繋ぎたいなら、前もって言ってくれればいいのに」

 それは、ほんの一瞬の出来事。なにが起きているのかを理解できたと同時に、手を繋げなくなったことなど、どうでもよくなった。胸の奥でつっかえていた棒が消えて、みるみるうちに心が満たされていった。紫織さんが俺自身の頭を撫でているという行為そのものに、ここまでの安らぎを感じるとは思ってもいなかったのだ。頭の中の線が絡まってしまい、おかしくなりそうだった。

「あ、あの紫織さん」

「んー?」

「……もう大丈夫です」

「本当に?」

「はい」

「撫でられるのは好きじゃないか」

 できることなら、ずっと撫でていてほしいと思えるほど、紫織さんの手は心地よかった。ここだけの話、撫で方には個人差がある。頭を撫でるといっても、それは決して単純なことではないのだ。

 力の入れ具合や手の動かし方によって、同じ頭を撫でるという行為であったとしても、全く気持ち良くないことだってある。どちらかといえば、撫で慣れていない人のほうが多いのではないだろうか。もちろん、ここは相性の問題がある。しかし、紫織さんは俺の頭を撫でたことがあるかのようだった。それほどに、違和感がなかった。

「違う。そういうことじゃなくて」

「なくて?」

「嬉しかった……です」

 頬のあたりが熱かった。きっと、俺の顔は赤くなってしまっているのだと思う。そして、それを見られているのが紫織さんだということで、より熱くなっているような気がした。

「こういうの、飛鳥好きなんだね」

 俺はきっと、他人との接点を欲しているのだ。本当は心の底で繋がりたいと思っているものの、目に見えないという恐怖心を捨てることができない。だからこそ、他人との関係に名前を付けたくなる傾向がある。紫織さんとのあいだには、その両方が存在していない。それならばと、俺は彼女と手を繋ぐという行為に及んだ。これらはすべて俺が、俺のためだけにしたことである。恥ずかしながら、あまり紫織さんのことを考えた上でしたことだとはいえない。

 そのせいか、余計に紫織さんから頭を撫でられたということが、特別なことのように思えた。なぜなら、それは俺からではなく紫織さんが自主的にした行為だからだ。

「好きです」

 不意に出たその言葉で自分自身が驚いてしまい、目を見開いてしまった。前を向くと紫織さんはそのことに気づいていないのか、方向を変えて歩き始めていた。

「紫織さん」

「なに?」

「店に着くまで、繋ぎたいです」

「もうすぐ着くよ?」

「それでも。だめですか」

 紫織さんと俺は、きっとこれからも心が通うことはない。それでも、彼女との繋がりを求めてしまうのはなぜだろう。数週間ぶりに再会したことで、また得体の知れぬ行き場のない感情が芽生えてしまった。それとも、地中に埋まっていたものを掘り起こしてしまったのか。

「……もう、しょうがないな」

 横断歩道を渡っていたときとは異なり、俺と紫織さんの手は確かに繋がっていた。紫織さんの握力が自分の手に伝わっていることが、なによりの証拠だ。

 バーにたどり着くまでの途中にある広場の中心を、手を繋ぎながら抜けていくことになぜか安心感を抱いた。それはきっと、紫織さんと一緒に歩いているのは自分なのだという実感が湧いてきたからだろう。

 紫織さんの隣にいれることが、なぜこんなにも幸せに感じるのか。それはきっと、彼女に恋心を盗まれたからだ。

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