第19話 きっとまた会えるよね

 加奈お姉さんとの出会いは、俺が両親を失ったあとだった。どうすればいいのか分からず、突然現れた親戚を名乗る大人たちから逃れるように走った。どのくらい走ったのか、それがどこなのか、そんなことを気にしている余裕なんてなかった。

「これから、どうすればいいんだろう」

 偶然見つけた公園のベンチに座り、ただひたすら考え事をしていた。昨日まで当たり前に過ごしていた日常が、こんなにも呆気なく終わることなんて、想像すらしていなかった。そもそも、もうお母さんとお父さんの声を聞くことすらできないなんて、いったいどうすれば想像できたのかな。

 自問自答の繰り返しで、頭の中が重かった。無数に入ってくる情報に、処理が追いついていない。そうなれば、次にとる行動はただ一つ。ため息を吐くことしかできない。そんなことを考えていると、水が手の甲に当たったような感覚があり、ぱっと目を開いた。周りを見回しても、特に雨が降っている様子はない。それならさっきの感覚はなんだったのかなと下を向くと、水滴が弾けたような跡があった。

「どうしちゃったの、大丈夫?」

 突然現れた髪の長い、セーラー服のお姉さん。声をかけてきたけれど、顔を見ても誰か思い出せなかった。けれどなぜか、この人と俺が他人であるとは思えなかった。知らないのに、知っている。不思議な感覚に、俺は少し戸惑っていた。

「大丈夫です……」

「じゃないよね? そんなに泣いてたら、目の周りが真っ赤になっちゃうよ」

 柔らかく包んでくれるような手の感触を、頭の後ろで感じていた。存在を認めてくれているような気がして、余計に泣いてしまっていた。遺産だ相続だと、俺自身のことなど考えてはくれない大人たちが、どうしようもなく信用できていなかったからというのも、理由の一つかもしれない。そんな場所から逃げるようにして、俺はここへたどり着いた。

「私の言い方がよくなかったよね。大丈夫なんて言わなくていいから…ね?」

「はい……ごめんなさい。なかなか泣き止めなくて」

「いいのよ。大丈夫、お姉さんがいるからね」

 なぜこんなに優しいの。先ほどまで他人のことなど信用できないと、そう思っていたけど、お姉さんみたいな人もいるんだ。ただ、優しさを受け取れば受け取るほど、俺はこの人が何者なのかが気になり始めていた。どこかで会ったような記憶はないので、おそらくこれが初対面なのだ。

 俺のことを年下扱いしてくるということは、お姉さんが年上に違いない。見覚えはないけれど、セーラー服を着ている。しかし、セーラー服は中学生でも学校によって制服に指定されているところもある。そこで見分けるのは難しそうだ。

「お姉さん」

「どうしたの?」

「俺と会うのは、初めてだよね」

 そう聞くと、お姉さんは頭に人差し指を当てて考え始めた。考えているときの癖なのかな。

「……初めてだと思う。間違ってたらごめんね」

「ううん。ありがとう」

「いいのよ。私、たまたま来た公園で泣いてる男の子を見かけて見捨てるほど、冷たい人じゃないから」

「なんでそんなに優しくしてくれるの?」

「え? 理由なんてないけど、冷たくする必要もないじゃない?」

 なにも考えていないような顔をして、お姉さんはそう言った。

「そういうものなのかな」

 ついさっきまでの言葉責めで精神的に苦しくなっていた俺の目には、お姉さんが女神のように見え始めていた。この公園から出ると、彼女の存在が蒸発してしまうとか記憶がなくなってしまうとか、そういう仕掛けになっているのではないかと疑ってしまうほどだった。

「今日ね、私の高校は創立記念日なの。だから、一日休みでね。そのことをすっかり忘れてて、電車に乗る直前に気づいて。せっかく準備したし、このまま知らないところに行ってみようと思って、ここまで来たんだよね」

「そういうことか。だから見たことない制服なんだ」

「うん。もう帰ろうかなって思ってたら、あなたがいたのよ。声をかけるつもりはなかったんだけど、泣いてるように見えてね。近づいてみたら、やっぱり泣いていて。心配になって声をかけちゃった」

 偶然。お姉さんがここまで来て、俺も走り続けたところがここで。不思議なこともあるんだな。

「私、林原加奈っていうの。一応、高校生だよ。あなたは?」

「俺は、大垣飛鳥です。中学生です」

「急にかしこまっちゃって、どうしたの。年上だと思ってなかった?」

「いや、そういうわけじゃないんですけど。俺、高校生の人と話してるんだって思って」

 お姉さんはケタケタと笑い始めた。そんなにおかしなことを言ったつもりはないのだけれど。

「なにそれ。面白いね、大垣くん」

「林原さんも、面白いお姉さんです」

「加奈、でいいよ」

「いきなりそれは恥ずかしいです」

「じゃあ、私から言うね。飛鳥くん」

「えっと」

 このお姉さん、どうやらとても心が強いみたいだ。容赦がない。

 恥ずかしがっていても、多分無理やり言わせるつもりだ。それならば、自分から言ってしまったほうがいいだろう。

「…加奈お姉さん?」

「なんで疑問形で私のことを呼ぶのよ」

「自信がなくて」

「呼び捨てでもよかったのに」

 夕陽が沈んでいき、だんだん暗くなっていく公園の電灯がついた。風が冷たく、横を見るとお姉さんの手が震えていた。きっと寒いんだと思う。

「加奈お姉さん」

「なに?」

「きっとまた、会えるよね」

「偶然が重なって、今日は会えたもんね。飛鳥くんとは、また会える気がする」

「うん。ありがとう」

 公園から出た俺たちは、近くにある駅まで歩いた。どうやら俺は相当な距離を走っていたらしく、かなりの時間歩き続けた。お姉さんも電車で帰るとのことで、一緒に駅までついてきてくれた。

 寒いからという理由で手を握ってくれたあの感覚を、しばらくのあいだ忘れられなかった。


 あれから時は流れて、これまた偶然が重なり、俺と加奈お姉さんは出会ってしまった。子どものころにした約束はたいていの場合叶わないものだが、こんなかたちで叶ってしまうなんて、いったいどんな縁があるのだろう。

「あのときの少年が、まさか女の子になってるなんて……。なんだっけ、せいてんかなんとかってどういうものなの?」

 初めてその病名を聞く人は、決まって最後に“なんとか”とつける。普段聞き慣れない単語なので、仕方がないとは思う。そもそも、この病自体が限りなく知名度が低いせいもあるのだろう。

性転化現象せいてんかげんしょうです。先に言っておきますが、女装趣味はないので」

「とか言いつつ、パンツスーツ着こなしてるくせに?」

「それは、仕方ないですよね。それとも、男装したほうが好みですか」

 女装するつもりが全くない俺にとって、できることといえば男装くらいだ。それならば、今の俺にもできることだし、抵抗感はない。むしろ、男装した姿を鏡で見て、違和感がないことを確かめたい。女として六年ほど生活している俺にとって、男装して違和感がないかどうかは、かなり重要なことだろう。

「うーん。それはあんまりかも」

 思考時間は、ほぼなかった。そのことがなぜかショックで、俺は軽く頭を抱えてしまった。

「どうしてですか。初めて会ったのは男のときの話なんですから、今もそうしたほうが辻褄が合いますよね」

「それもそうね。…でも、それは面白くないよ?」

 他人に対して面白さを求めるのは、どうなのだろう。決して俺は、加奈さんを楽しませるために、この格好をしているわけではないのだけれど。そもそも、俺の男時代を知っている人と会うことを、まるで考えていなかった。なぜなら、本格的に性別を移行する際に、それまでの人間関係を全て絶ったからだ。そのおかげで同窓会とか、結婚式の招待といったものがまるで来ない。これはある意味で楽と捉えることができるが、寂しさもあった。社会という輪の中に、俺だけが入れていないような。そんな気がするのだ。気のせいだと分かっていても、俺は過去に縋り付くことをやめられない。

 男のままで今も生活できていれば、きっと今とは違う未来があったのだろう。今更考えたところで、どうにかなる話ではないのだけれども。

「難しい顔して、なに考えてるの」

 そう言いながら、林原リーダーは俺の額に手を当てていた。

「冷たいです」

 暖房がついているとはいえ、会社の隅のほうにある自販機コーナーは、常に寒いのだ。そのせいか、彼女の手はとても冷たかった。

「熱はないみたいね」

「風邪なんてひいていませんよ」

「林原リーダーは……」

「ちょっと」

 それまでの優しい雰囲気を捨てたかのように、彼女は眉間にしわを寄せていた。なにか怒らせるようなことを言ってしまっただろうか。

「仕事中じゃないんだから、そんなにかしこまらなくていいの」

「でも、わたしの上司であることには変わりないじゃないですか」

「かわいくないなあ。見た目はかわいいのに」

「一言余計です」

 どうやら俺は、からかわれているようだ。外見をかわいいと言ってくれたのは嬉しいが、女の人はすぐにかわいいと言うので信用してはいけない。女の言う“かわいい”にはいろいろな意味が込められていると、あずさから聞いたことがある。

「ごめんってば。でも、せっかく会えたのに素っ気ない態度されるのは、なんか嫌だよう。あのときの約束、ちゃんと覚えてるんだから」

「…本当ですか?」

「本当よ。また会おうねって、約束したじゃない。飛鳥さん」

 この人は優しいだけではなく、記憶力もいいらしい。俺から言ったその言葉を、まさか覚えているなんて。恥ずかしさのあまり、顔がだんだんと熱くなっているような気がした。

「しましたね。林原さん」

「なんで私には上の名前で呼ぶのよ」

「下の名前で呼んでください、とは言わなかったじゃないですか」

 そう返すと、彼女は声を出して笑い始めた。それにつられて、俺も笑っていた。静まり返っているオフィスの中には、俺たちの笑い声が響いていた。恥ずかしいという気持ちより、本当にあのときのお姉さんと一緒にいるんだという実感があった。

 封印していた過去の俺の姿を知っている、数少ない人。そして、もう二度と会えないと思っていた人。隣にいるのは、確かにその人だった。

「こんなに意地悪な子だとは思ってなかったわ」

「それじゃあ…加奈リーダー?」

「役職名を外しなさい」

「加奈さんも意地悪です……あっ」

「やっと言えたね。おめでとう」

 記憶の彼方に存在していた人。その人が、すぐ隣で笑っている。そんな状況をようやく受け入れることができたのか、それまで味がなかったミルクコーヒーが、いつもより美味しく感じた。

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