第2章 対偶
第18話 お姉さんと飛鳥くん
「では、こちらが新プロジェクトのリーダーを務める、林原だ」
「こんにちは。前任の近藤から代わりまして、リーダーをさせていただきます。
近藤さんは、別部署への異動が決まっていた。平たく言うなら、昇進というやつらしい。
それにしても、林原さんは俺とそんなに歳が変わらないのではないだろうか。あまりお姉さんという感じがしなかった。
「軽く自己紹介がてら、大垣から話していってくれ」
部長が無茶振りをしてきたが、いつものことなので気にしていても仕方がない。俺自身も、これから長い付き合いになりそうな相手とは、少しでも距離を短くしておきたい。
「分かりました。初めまして、大垣飛鳥といいます。なにかとご迷惑おかけするかと思いますが、よろしくお願いいたします」
「大垣…さんね? はい、よろしくお願いします」
こちらを見る目が、少し怖かった。もしかして、初対面ながら相性が悪い相手だったりするのだろうか。まだこれから付き合いが長くなっていくだろうに、それはとても困る。その後の打ち合わせで話している際に、こちらが気にしているせいなのか、林原さんからの視線が痛い感覚があった。そんなに見つめられてもなにも出てこないのだが。
打ち合わせ自体は無事に終わり、あっという間に日が暮れ退勤することとなった。そうはいっても、残業したあとではあるが。打ち合わせ資料をまとめるのに、思いのほか時間がかかってしまったことが、主な原因である。
「ふぅ」
会社の中にある、自動販売機前の休憩スペースで、紙コップに入ったミルクコーヒーを飲んでいた。仕事終わりに飲むコーヒーは、なぜこんなにも美味しいのだろう。余韻に浸るこの時間が、とても好きだった。
「あれ、大垣さん?」
「…えっと、林原リーダー。どうしたんですか?」
「それはこっちのセリフよ。まだ会社にいたのね」
林原さんのそれは、決して怒るような言い方ではなく、心配されているような口ぶりだった。てっきり怒られるものだと思っていたが、実は彼女は優しいのだろうか。
「はい、すみません」
「いいのよ。私もさっきまで仕事していたし」
そう言いながら、彼女も俺と同じように自動販売機でなにかを注文していた。
「初日から無茶振りしてごめんなさいね。嫌がらせとか、そういうことじゃないってことは、伝えておくわ」
「は、はい」
「もっと気楽でいいわよ。多分、私とあなたはそこまで歳が離れているわけでもないはず」
「そうですかね」
とぼけてみた。一応は上司なので、失礼なことを言わないように細心の注意を払う必要があるからだ。今日の朝に会ったときから、それはずっと思っていた。俺にはむしろ、あまり歳が離れていないにもかかわらずリーダーを務めている彼女が、とても格好よく見えていた。
「私は今、二十七歳」
「あ、わたしは二十五歳です」
「そんなに離れてないよね」
「そうですね」
明るく笑う彼女につられるように、俺も乾いた笑いを漏らしていた。
「あとね、今日会ってから本当はずっと聞きたかったことがあるんだけど。もう少し引き留めても大丈夫?」
「いいですよ。なんですか?」
「私、大垣さんと昔に会ったことないかな」
「いつのことですか」
すぐに記憶の引き出しを探った。しかし、思い当たるような節はなく、彼女の思い違いなのではないかと疑った。こんなに美人なキャリアウーマンと、俺は知り合ったような記憶はない。
「ずっと前。ごめんね、本当に記憶違いかもしれないんだけど。同じ名前だったからさ」
「林原リーダーと、私が?」
「そう。あれはえっと、十年くらい前かな」
十年くらい前という情報を得た俺は、再度過去の振り返りをしてみた。すると、名前のみが一致した人物がいた。
「え、あの。待ってください、混乱してます」
「もし私の予想が当たっているなら、混乱するのはこっちだと思うんだけど」
記憶にのみ深く残っていた、微かな思い出。たった一度だけ、あの瞬間だけの関係。永遠に次は来ないと思っていたのだが、こんなことってあるのか。
「あのときのお姉さんですか」
「多分そうね」
「林原さん、ですよね」
「そう。あなたは飛鳥くん、だよね」
なんだこれ。もう二度と会えないと思っていたのだが、どうやら約十年ぶりにそのときが来たようだ。しかし、まったくと言っていいほど実感はなかった。
「女の子になっちゃったの」
「はい。あれからいろいろとありまして」
「仕事終わったんなら、敬語はよしてよ。でも、そっか。そうなんだあ」
夕方の公園。中学生だった俺を慰めてくれたお姉さん。まさか、あのときのお姉さんと再び会えるとは思ってもいなかった。
「はい…あ、うん。でも、どうして気がついたの」
「名前、しっかり覚えてたんだから。忘れられないよ、公園で泣いてる男の子のことなんて」
「改めて言われると、かなり恥ずかしいですね」
親という存在を突然失った俺は、途方に暮れていた。当たり前だと思っていた日常は、決して当たり前ではないということを初めて知った。家に帰ることができず、公園のブランコを泣きながらこいでいた。
そんな俺に寄り添ってくれたのは、見知らぬセーラー服を着ていたお姉さんだった。
「それにしても、いまだに理解できないわ。もしかして、女装して生活してるの?」
「装ってはないですね」
「意味ありげな発言ね、どういうことよ。ああ、実は元々女の子だった?」
「違います。勝手に他人の過去を改変しないでください」
「じゃあ、なにがあったのよ」
目の前のお姉さんは手を合わせて、話を聞かせてくださいアピールをやめなかった。あまり話したくないことなのだが、こうして会えたのもなにかの縁だろう。思い切って話すことにした。
「混乱すると思いますが、言いますね。元は確かに男だったんですけど、原因不明の病気に
心を開かなくなったのは、お姉さんと会うきっかけとなった、あの事件があったからだと思う。
それ以降の俺は過去に一度だけ、あずさに対してのみ、心を開いていた時期があった。ようは、依存していた。人間関係の構築が下手な俺にとって、そっと寄り添ってくれる彼女の存在は、かなりありがたいものだった。だからこそ、関係が拗れたことがあった。
「飛鳥さん」
「どうしたの?」
その当時、俺とあずさは来年ごろから一緒に住むという約束をしていた。俺はそれを信じていた。きっとなにがあってもそうなる未来が約束されたものだと、ひたすら純粋に思っていた。彼女から、そう告げられるまでは。
「あの話のこと、なんだけど」
「あの話って?」
「一緒に暮らすとか、なんとかって」
「ああ、そのことね」
「やっぱり、やめにしない?」
一瞬、聞き間違えかと思った。そんな楽観的な考えとは正反対に、彼女の顔はとてもつらそうだった。
「どうして」
「だってあたし、飛鳥さんとはこれ以上の関係になれない」
「……うん」
「彼氏が、できたんだ。大学で知り合った人なんだけど」
「そうなんだ。へえ」
結局、そうなるんだ。女って、最終的に行き着くのは彼氏とか結婚とか、そういうところなのだ。あずさが俺の正体を知ったとしても、なにも変わらないのだと思う。元男とか、性転化したからとか、そんなことは彼女には関係ない。俺と彼女の間には、超えられない壁が存在している。それはつまり、彼女とは特別な関係にはなれないということを意味していた。
「おめでと、って言えばいいかな」
全然、ほんの少しだってお祝いの気持ちをもてずにいた。そんな自分が情けなくて、馬鹿馬鹿しい。
俺との約束よりも、あとにできた彼氏さんとのことを優先されたことが、とんでもなく悲しかった。期待をしてしまった時間と希望を抱いていた気持ちを、どこかへ捨てたい。行き場の失った感情をどうすればいいのか、相談できる相手などいなかった。
「ありがとう。急にごめんね」
「いいよ。教えてくれて、ありがとうね」
よくない。全然、よくないよ。
映画の予告で衝撃のラストと流れ、ラストシーンが思い切りカットされてしまったような気分だった。とんでもなく、気分が悪い。あずさの表情は、とても晴れやかなものに変わっていた。
心の底は違っていても、今は祝わないといけない。荒ぶる感情を抑え、俺はしっかりと彼女を見届けた。
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