第17話 わたしだけの紫織さん
「結構歌ったよね」
「そうだね。でもわたし、まだ歌えるよ」
「嘘でしょ? 深夜帯のカラオケって、途中で歌い疲れて寝るところじゃないの」
確かに、紫織さんの言う通りだった。俺が元気なだけで、紫織さんはおそらく仕事終わりにわざわざ来てくれているのだ。それを考えると、休むほうがあっているのだろう。彼女の目が段々と細くなっているので、よほど疲れているのだと思う。しかしそれでも、このいつもとは違う雰囲気を楽しみたいという気持ちが強くなっていた。
「でも、せっかく来てるのにもったいなくない?」
「いやいや。そもそも飛鳥は歌うのが好きだよね」
カラオケというものが、俺は好きだった。盛り上がることよりも歌うという行為自体が好きだったので、暇を見つけては一人でカラオケに行くこともあった。部屋料金なので、一人だと金銭面で割高なのだけれど。それでも、非日常の空間が存在していることが、なにより嬉しい。
けれど、今は紫織さんが一緒にいるのだ。相手のことを考えて行動しなければ、いけない。彼女と親密な関係でなかったとしても、これは最低限の礼儀だ。
「そこまで言うなら、ちょっと休憩しようかな」
「うん。眠くない?」
「わたしはまだ眠くないかな」
「本当なら家に帰るくらいの時間だからね。一気に疲れが来たかも。それにしても、今日は疲れたな……」
紫織さんが働いている夜の店だが、年越しは営業していないらしい。鮎川駅に来たときの彼女が仕事終わりのように見えたのは、どうやら気のせいではなかったようだ。
今はどんな仕事をしているのか、安心して働ける職場なのか。いろいろと気になるところはあるが、きっとこのタイミングで聞くのは間違っている。そんなことをすれば、俺は"重たい人"だという扱いを受けてしまうだろう。それだけは避けたい。
「お疲れ様」
マイクを切ってソファーに座ると、紫織さんが俺の膝上に頭を乗せてきた。
「まだ眠くないんでしょ? ちょっとだけ寝かせて。…いいよね?」
ここで拒否できるほど、俺は紫織さんに対しての感情を捨てていない。この人は、いったい俺のことをどういう捉え方で見ているのだろう。友人でも、恋人でもない。そして、偽りの恋人同士でもなくなっている。いくら関係に対して名前を付ける必要はないといえど、心の中を埋め尽くしていく雲が晴れることは、しばらくの間はなさそうである。
「いいです」
無感情を装うしかない。あなたに対して、別に何も思っていません。なので、早く寝てください。そう思うことでしか、この状況を乗り越える余裕を生み出すことができなかった。
「飛鳥ってさ」
「なに?」
「私が飛鳥のこと好きだって言ったら、付き合える?」
どういう質問なのか、その真意が掴めなかった。いつものように、俺のことを試すような、いけないことを考えている目で、紫織さんは下から見上げるような姿勢でそう言ってきたのだ。俺との付き合いを、彼女はあくまでも
言葉の意味をまともに受け取っていいのか。そんなことを考えながら会話をする相手は、後にも先にも彼女くらいなのだろう。時間をかけての付き合いだからとか、こうして長く一緒にいてくれるからとか。そういった甘い考え方は、彼女に対しては一切通用しないのだ。あくまでも、俺は彼女にとってある一定の紐付きがある知り合い、という程度にしか認識されていないのだ。
「…私が、紫織さんと?」
「そう」
「いや……それはないね」
紫織さんと付き合うことを、頭の中では否定的に考えていた。一方で、心の中では肯定的に捉えていた。前提条件を全て考慮しなくてもよいということであれば、俺はなにも言わずに彼女と付き合う選択をするだろう。そうすれば、霧が晴れると思っているからだ。だが、それはできない。
俺自身が、紫織さんのことを好きではないからだ。
「そうか。そうだよね」
なにかに納得したような表情を浮かべていた。俺と付き合うつもりがないくせに、そんな質問を投げないでほしい。もっというなら、試すような真似をしないでほしい。紫織さんにとっては、ほんの些細な日常生活での冗談に近い会話なのかもしれない。だが、俺にとってはただの嫌がらせとしか思えなかった。
それならばと、俺は紫織さんの口からどうしても聞きたい、あることを質問してみることにした。酔っているときでなければ、答えてくれそうにないからというのがその理由である。
「紫織さんって、奈々さんと付き合ったことある?」
「なに、藪から棒だね」
誰にでも同じ態度で接する紫織さん。彼女の周りには、特定の相手はずっと存在していなかった。
勘の鈍い俺でも、奈々さんと紫織さんの間になにかがあったということは、明らかに分かる。おそらく、二人はかなり深い関係だったんじゃないか。それとも、俺の考えすぎなのだろうか。
どちらにせよ、ここではっきりとさせておきたい。そうじゃないと、紫織さんにこれ以上関わることができない。ずっと気づいていないふりをしていたのだけれど、そうすることにも限度というものがあるのだ。
「ないよ。そんな事実はないね」
空気を乱した俺に嫌気がさしたのか、彼女はかばんから白い箱を取り出した。ライターのカチカチという音が部屋の中に響いている。
「信じて、いいんだね?」
我ながら馬鹿な質問だ。他人のことを信用しないように生きてきた俺に、誰かを心の底から信じることなど、できるはずがない。しかしそれでも、紫織さんなら大丈夫じゃないのかと何度か思った。こうしたやりとりがいつまで続けられるのかは分からないけれど、二人で過ごすことは不可能ではない。そんな夢物語を巡らせるほど、俺は楽観的だった。
「いいんじゃない」
会社の中にいる紫織さんと、目の前にいる紫織さんは、まるで別人だった。きっと、夜の店で働く紫織さんも、全くの違う人なのだろう。
「私、奈々と一緒に暮らしてた時期があるんだよね」
「…え?」
「まあ、そんなに長くはなかったけれど。二年くらいだったかな。流れで付き合うことになって、半同棲みたいな感じで暮らしていたのよ。そしたら、奈々のほうから『一緒に暮らそうよ』って言われてね。付き合って半年経ってたし、お互いに社会人だから、別に問題はないなと思ったわけ。正直なところを言うと、奈々と一緒に暮らすためにお金を稼いでいる時期もあったかもね。昇給できれば、もっといろんなことに使えるな、とか。それで、ようやく二人で暮らす部屋を借りるところまでたどりついて、家具も全部揃えたのね。でも、舞い上がってたのは私だけだった」
話し始めたときは楽しそうにしていた彼女の顔が明らかに違っていることは、注意しなくとも分かる程度にひどかった。どのくらいひどいかといえば、彼女に話しかけることを
「どういうこと…?」
「私がいけなかったのかもしれないし、どちらが悪いという話ではないんだろうけれどね。『好きじゃなくなったから、別れたい』と言われたのよ。ずっと好きだと言われていたから、奈々の口からそんな言葉を聞くことになるなんて、微塵も思ってなかった。どうしようもないよね、本当に。それでも部屋を借りて数ヶ月しか経っていなかったし、奈々も部屋を借りなおさないといけないから、しばらくは一緒に暮らすことをやめられなかった。段々と彼女の気持ちがどこかへ飛んでいってることは、日に日に実感が強くなっていったなあ。夜の帰りが遅くなったり、知らない子の話を聞かされたり。奈々、私のことどう思ってるんだよって、何回聞きたくなったか」
「……辛そうだね」
「辛いなんてものじゃなかったよ。痛い。どうしようもなく、痛かった。あんなに私のことを好いていた彼女が、こんなにも呆気なく消えていくんだって。最後は、手紙だけを残して蒸発していたわ。同じ会社だけど、部署が違っていることが本当に救いだったって、初めの頃はよく考えてた。今では笑い話だけどね」
そう話す彼女の口元は笑っていたが、目が笑っていなかった。
「でも、それならなんで今でも飲みの席で一緒にいるの」
そんなに苦しい過去を抱えていながら、彼女らはなぜ今でも会っているのか。そして、他愛のない話をすることができるのか。俺には理解し難いことだった。
「別に、お互い過去の話だと割り切ってるからじゃないかな。奈々から直接話したことはないけれど、きっとそうだと思う。少なくとも、私はもうなにも気にしていないし、ただの飲み友達だよ」
「そうなんだ……」
俺にはできないことだと思った。今まで付き合ったことのある人と、元通りの関係になれるかと聞かれれば、考える暇もなくできないと即答するに違いないからだ。過去の話は蓄積されていくものだし、この先も消えることはないと思う。忘れられないし、昇華することなんてどれほど先になるのだろう。彼女たちのように、感情の割り切りなど俺には簡単にできない。些細なことであればいいが、恋愛なら尚更だった。
紫織さんから、過去の話を聞くことはこれが初めてに近かった。どこまでいっても、どれだけ関係が深まっても、彼女は過去の話をしない人だと勝手に思っていた。だからこそ、このことはかなりの衝撃を受けた。
「飛鳥は、あのときと同じかそれ以上に、一緒にいてもいいなと思ってる」
「紫織さん……」
ずっと彼女の頭の重さを感じていたが、スッと軽くなってしまった。そして、どう返答すればいいかが分からず、俺はたばこを吸う彼女を、じっと見つめることしかできなかった。振り返ってみると、この日を境に俺の心は狂ってしまったのかもしれない。
奈々さんと俺は、紫織さんからすれば全く同じ立ち位置なのだ。その事実がどうしようもなく受け入れ難くなるのは、もう少し先の話である。
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