第16話 浅き夢の恋心

 ある意味、これは危険なことである。奈々さんからすれば、きっとこれは裏切り。しかし、それでも俺は紫織さんに会いたいという気持ちを押し殺すことはできなかった。それができないということはつまるところ、彼女のことが気になって仕方ないのである。

「いいよ、わたしが焼くから」

 紫織さんが積極的に肉を焼こうとするので、俺が代わろうと声をかけた。すると、彼女は嬉しそうに微笑んだ。

「そう?」

「うん。わたし、結構焼いてもらってる気がするから」

 本当はそんなことない。

 ただ、代わろうとして声をかけたとき、彼女は確かに嬉しそうだった。真実なんじゃないかと思えるほどに、屈託くったくのない微笑みだった。

 ずるい。彼女は、本当にずるい。俺が考えていることを透かして見えているかのように、手のひらで転がされている気がしてならないのだ。そこまで考えて、発言や行動を起こしているとは思えないけれど。きっと考え過ぎなのだ。そして、彼女の言葉を信用してはいけない。

 他人の心に対して深入りすることは、自分が傷ついて耐えられなくなるリスクを背負うことになるからだ。正直なところ、そこまでして彼女と接したいかといわれると、微妙なのである。

 その人との関係がある一定以上の線を超えないと確定していれば、俺は気兼ねなく深入りできる。だが、実際にできるのはごく限られた人物だけなのだ。なにを考えているかを読ませてくれない紫織さん相手にそれをすることは、間違いなくなにかが起きてしまうことに繋がる。

「……ありがとね」

 関係のない関係。それでいいじゃないか。俺が望んでいるのはきっと、紫織さんとこうして深入りせずに名前のない関係を続けることなのだから。


 盛り皿をすべて焼き終えたくらいで、店内はテレビの音と俺たちの声が響くだけの、薄暗い空間と化していることに気がついた。先ほどまでいたおじさんグループも、いつのまにか帰ってしまったらしい。すっかり静かになってしまったので、なんだか話しているのが段々と恥ずかしくなってきた。

 そんなことを考えていたところで、カウンター越しに店員さんがこちらの様子を伺っていた。

「お姉さん達、いつ帰るんだい?」

「もう店閉めるんですか?」

「そうだね。もうお姉さん達だけだから、終わったら閉めるよ」

「えー。終わり?」

 目の前でかなり酔っ払っていらっしゃるのは、普段とはかけ離れた姿の紫織さんである。人は酔うと性格が変わってしまうというが、それどころではないなと見ていて思った。ここまで酔う人だっただろうか。振り返ってみると、スタート直後からハイペースで飲み進めていたような気もする。

 いろいろと考えたとしても、すでに後の祭りであることには、なんら変わりはないのだけれど。

「そう。終わりだよ、紫織さん」

 もしそういう流れになれば彼女の家にでも行くつもりだったが、すっかりその気は吹き飛んでしまっていた。こんなに酔っ払っていると、きっと帰ってもすぐに寝てしまうだけなのだ。それは望んでいない。

 そういうことをするにしても、しないにしても同じだった。彼女と話していれば満たされる心は満たせなければ、なにも意味がないのだ。

「……そうか」

 どういうスイッチの切れ方なのかは不明だが、紫織さんは急に冷静になって会計口に向かっていた。俺は慌ててかばんを手に取り、その姿を追った。妙に気まずくなってしまった彼女とのやりとりは、しばらく淡々と進められていき、会計は割り勘になった。飲んだり食べたりした量は明らかに彼女のほうが多かったので少し不満をもってしまったが、いつも少し多めに出してもらっているので、特に気にしないことにした。

「じゃあ、帰る?」

 駅のホームから聞こえる最終電車案内のアナウンスが、耳の中で引っかかっていた。まだ帰れる時間なんだ、急げば間に合うんだろうなと思った。

「いや。帰らせないよ」

「あ、そう。飛鳥は私を怒らせたね」

「ちょっと、それどういう……」

「飲み直しに付き合いなさいってことよ」

 紫織さんはすっかりその気のようで、止められそうになかった。ここで帰るという選択肢もあるが、その誘いを拒否できない。

 ここで離れてしまうと、もう彼女に会えないんじゃないか。そんな不安が、心の中に雨雲を作っていたのである。今にも降りそうな曇り空に対して、俺は後ろを振り向くことはできなかった。

「まさか、帰るつもりじゃないよね」

 俺たちの横を走っていく人々。車輪が軋む音が、その空間を支配していた。それは、終電間際にだけ見られる光景だ。まだ慌てる時間じゃない。腕時計へと目線を落とすと、まだほんの少しだけ余裕があったのを、先ほど確認したからだ。しかし、それを紫織さんは見ていたのだろう。

「迷ってる。だって、全然そんなつもりじゃなかったから」

「…本当に?」

「うん」

「ほんの少しも?」

 俺のことを試すような真似をする彼女のことを、憎むことはできなかった。瞳の奥にある黒に近づくことを、許してくれるとは思えなかったからだ。

 彼女にとって俺はあくまでも"大垣飛鳥"であり、それ以上もしくは以下でもない。そんなことは分かりきっているにもかかわらず、俺はまだ彼女にこだわっている。人というのは矛盾だらけだが、自分という存在を知るときにはそこを深掘りしなければいけないのである。

「負けました。いいですよ、気の済むまで付き合います」

「言ったね?」

「いや、あの……」

 どうやら俺は、まんまと紫織さんの設置していた落とし穴にはまってしまったようである。


 移動しながら行くところを考えると言って歩き始めた彼女だったが、いつまで経っても目的地らしき場所に着く気配がなかった。もしや、特になにも考えずに歩いているだけなのではないだろうか。

 今日が年の瀬であることをすっかり忘れていたが、腕時計を見てみると、時刻はすでに零時過ぎ。なんだか、呆気ない年の越し方だ。

「紫織さん」

「ん? なに」

「あけましておめでとう」

「ああ、あけましておめでとう」

 今年もよろしく、とは言えなかった。それがどんな意味を持ってしまうのかということに、気づきたくなかったからだ。今以上に距離が縮まることを、決して期待してはいけない。期待したくない。


 駅の周辺をぐるぐると歩き回り、最終的に行き着いたのは周囲の暗さを際立たせるようにキラキラと光っている、カラオケボックスだった。

「ここにしようか」

「カラオケ? 歌うの?」

「まあ、そういうこと」

 自動ドアの先にある暖気が妙に心地良く、カラオケだろうがなんだろうが、もはやどうでもよくなっていた。外が寒すぎるのだ。紫織さんは寒くないのだろうか。俺はというと、体の震えが止まらなかった。


 年越しでのカラオケを楽しんでいるのか、店の中は案外繁盛しているようだった。二階の一番奥の部屋に案内され、ドリンクバーに立ち寄り、部屋の中に入るとすぐにエアコンの電源ボタンを押した。このままでは、マイクすら手に取ることができそうになかったからだ。

「ありがとう。寒いな」

「ずっと外で歩いてたら、冷えるのは当たり前だよ」

 嫌味ったらしくそう伝えると、紫織さんは不気味な笑みを浮かべていた。きっとまた、なにかよくないことを考えてるんだろうな。

「なあ、飛鳥」

「どうしたの? 歌いたい曲、決まった?」

「ちょっと、キスしよっか」

「ちょっと…え?」

「いいでしょ。初めてじゃないんだし」

「紫織さん、酔ったね? 酔い過ぎだよね?」

 目の前が、暗かった。元々明かりをつけていなかった部屋のなかには、ドアの向こう側の光だけが差し込んでいた。それが、紫織さんの体が前にくることによって、遮られてしまった。

 いい香りがする。どこの香水つけてるんだろ。

「酔ってないよ」

 へへっと笑いながら話している彼女を見て、俺は酔いが覚めてしまっていた。彼女と同じように酔っていれば、もっと変なことになっていたのかもしれない。そう考えると、恐ろしかった。

「とりあえず、水飲もうか。ね、紫織さん」

 そう言ってドリンクバーの水が入ったコップを、紫織さんの口元に近づけた。すると割とあっさり受け入れて飲み始めたため安堵していると、紫織さんは自らの唇を俺のほうへ向けたまま押し倒してきた。

「ちょっと、なにして…!」

 次の瞬間に、生暖かさと冷たさが合わさった液体が流れ込んできた。それが口内を満たすと、やがて喉の奥に流れていった。このやり方、奈々さんに口移しされたときとまるで同じじゃないか。なんか、嫌だな。

 少し引っかかるところがあったが、そんなことを気にしている場合ではなかった。俺にとって不都合のある姿勢になっているのをどうにかするため、まずは彼女を起き上がらせないといけないと思い力を振り絞った。しかし、まるで動かなかった。おかしい、昔に同じようなことがあったときは、女の子をスッと上げることができたはず。そう思ってもう一度試してみたが、結果は変わらなかった。そこで、俺はようやく今の状況を理解することができた。


 俺、もう普通の男じゃない。


 思い返せば、あれはまだ完全に体が定まっていなかった時期の話で、今の容姿になったあとではない。女みたいな体になることで、こんなところに影響が出るとは思わなかった。声もかなり高くなってしまい、昔の知り合いと遭遇をしても気づかれないくらいには変わり果ててしまっているのが、現状の俺の姿だった。

「水、おいしいね」

「もしかして馬鹿にしてる?」

 相変わらず紫織さんは、俺のことを見透かすように接してくる。そうされることで俺がどう思うのか、なにを考えるのか、そこまで考えて行動してほしい。でなければ、頭がどうにかなりそうだ。

「そんなことない。シラフだよ」

「それは大嘘。あのね、明らかな嘘に真実を混ぜちゃいけないんだよ」

「ははは。飛鳥は相変わらず厳しいな」

 俺の手を握ろうとしてくるたびに漂う香りに、頭の中がどうにかなりそうだった。酔いと香水の組み合わせは、あまりよくないらしい。怒りと戸惑いの感情が、たちまち沈静化されてしまったのだから。

「ほら、歌でも歌おう」

 話題転換が下手ですよ。全くなにがしたいのかが分からない。こんなに感情が揺れているのは、もしかして俺だけか。

「…はい。なに歌いますか?」


 紫織さんは、好きでもない相手ともこういうことができるんだね。そう思うと、あんなに紫織さんに会いたがっていた俺が、なんだかただの馬鹿に思えて仕方なかった。

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