第15話 終わらない

 今年ももうすぐ終わり。残り三十分ほどだった。

「ここも空いてないのね」

 大晦日でこの時間、当然ながら部屋の空きがあるわけがなく。俺たちは、ホテル街を彷徨う影となっていた。

「やっぱり、厳しいかな」

「今のところ、全滅だもんね」

 あたりを見回してる奈々さんを横目に、俺はいけないことを考えていた。

 今は、奈々さんとそういうことをしたい気分じゃない。だから、この場を離れたい。

「…また、今度にする?」

 嘘を吐いているわけではない。なにかを隠しているわけでもない。ただ、そういう気分ではなかった。だから、今度にしよう。そう思っただけなのだ。

 その気になっていたのか、奈々さんはなぜと言いたげな顔をして、俺の目をじっと見つめていた。

「しょうがないね」

 きっと奈々さんは、俺に『家、行ってもいいですか』なんてことを言って欲しかったんだ。明らかに、そういう顔をしていたのだ。それが分かっていながらも今日一緒に過ごすことを放棄した俺には、奈々さんに申し訳ないと思うことさえも許されないだろう。

 ただ、あの人に会いたくなったから。そんなのは言い訳にもならない。普通なら、ここで選ぶべきなのは奈々さんなのだと思う。


 鮎川駅の改札口でわかれて、俺はかばんから携帯電話を取り出した。連絡先には数十件の登録があるが、かける相手はもうとっくの昔に決まっている。

「もしもし、紫織さん?」

『んー? この声は飛鳥か?』

 もう、止まりそうにない。言葉の波が、胸の奥に潜んでいた。それらはとどまるところを知らず、どんどんと北上していた。俺、きっととんでもないことをしている。自覚があるからこそ、余計にタチが悪い。

「お仕事中?」

 紫織さんは、いつのまにか夜の仕事に復帰していたらしく、電話の向こう側からはにぎやかな声が響いていた。きっと俺と"仲良く"していたときも、働いていたのだろう。

『いや、ちょうど終わった。どうしたの、急に』

「ちょっと、会わない?」

『…いいけど。なにかあった?』

「なにもないよ。ただ、もうすぐ今年も終わりだからさ」

『そういう問題か』

「うん。そう」

『なにか、あったんでしょ』

「ううん。ほんとになにもない」

『…寂しいの?』

「いや……」

 なんて答えればいいんだろ。さっきまで奈々さんと一緒にいて楽しかったけど、なぜか一緒にいなくていい気がして。わかれたあとに寂しくなったから、今の時間に会えそうな紫織さんに連絡したの、とでも言えばいいだろうか。

 すごく紫織さんに失礼なことをしようとしている。けれど、会わないとこの胸のあたりに抱いているもやもやが晴れないだろうと思う。自分勝手で、わがままな考えだ。それでも会いたい気持ちが上回ってしまった。

『しょうがないな。どこで会う? 一応、鮎川の近くにいるけど』

「会ってくれるの?」

 自分のことながら、相手から否定されることがない質問を投げかけることが失礼じゃないかと感じた。紫織さんから『そうだよ』と言ってくれると確信をもってからでないと、俺はそう言えなかった。愛想をつかれてもおかしくないだろう。

『そうだよ。それとも、会いたくはなかった?』

「ううん。全然、ほんの少しもそんなこと思ってないよ」

 紫織さんに会いたい自分と会いたくない自分を比べたときに、勝るのは会いたい自分であった。

 俺は、しばらくその人と会っていないでいると、もしかして忘れられてるんじゃないか、嫌われてしまったんじゃないかと考えてしまう。そのくらいに後向きな考え方なのだ。

 あんな別れ方をして、まともに会ってくれることなんてのはもうないと考えるのは、普通なんじゃないか。それともあのとき、俺は紫織さんを止めるべきだったのだろうか。

『それならよかった』

 期待をもち始めていた。紫織さんは、俺と例の関係を解消したあと、実は会いたかったのではないかという期待だ。それはおそらく俺の考えすぎだし、きっと紫織さんは俺のことなんて忘れかけていたに違いない。この感情には、蓋をしなければならないのだ。

 期待してはいけない。そして、深追いしてはいけない。それが俺の中にある、紫織さんと関わる上での自分ルールだった。そのため、紫織さんと会ってもそれらの感情を見せるような真似はしてはいけない。紫織さんにも俺自身にも、よくないことなのだ。

「うん」

 会いたかった。言葉に出して言えたら、どんなに楽になるのか知りたかった。胸のあたりに小さなおもりを乗せているような、そんな感覚から抜け出したい。喉の奥にさえ上がって来れないおもりは、どうすればなくなる。


 鮎川駅南口。鮎川環状線あゆかんの改札口が見えるところで、俺は突っ立っていた。改札前の自由通路を通り過ぎていく人々を観察するように、焦点の定まらないまま、その光景を眺めていた。

 どのくらい時間が過ぎているか、人がどれくらい目の前を通り過ぎたかも分からず、俺はいつの間にかうたた寝をしていた。目の前が真っ暗になったことに気づき、ハッとして目を開けると視線の先に人がいた。

「立ちながら寝てた? 器用だね」

「え、ああ。え?」

 状況が飲み込めずにいた俺だったが、ぼんやりとしていた視界がはっきりしてくると、それが紫織さんであると分かった。

「あれ、ごめんなさい。おかしいな」

「びっくりしたよ。立って寝てるんだもん」

「やめてください。恥ずかしいですから」

 彼女と話すことに、俺は若干の違和感を覚えていた。前のように、話す言葉を自然に繋げるのがとんでもなく難しいものになっていたからである。初めは紫織さんのほうが変わったのかと思ったが、俺が勝手に彼女との間に見えない壁を作ってしまっているだけだと気づいた。目では見えないゆえに、心のなかの整理をすることでそれを溶かさなければ、いつまで経っても消すことができない。とても厄介な心理的障壁である。以前ならもっと近づけたはずなのだ。なのに、どうしてだろう。紫織さんと会って話すことが、こんなに苦しいなんて思わなかった。

「単刀直入に聞くけどさ」

「はい」

「…立花さんと上手くいかなかったの?」

「どうして知ってるんですか」

「風の噂ね」

 きっと、噂というよりも勘が冴えているだけなんだ。この人はいつも俺の表情を見ながら、自分の発言の反応を確かめる癖のようなものがある。そのため、どんなに嘘で言葉を包んだとしてもすぐにバレてしまう。そもそも、俺自身が嘘を吐くのが苦手ということもあるが。日常生活のほぼ半分を嘘で塗り固めて生きている自分にとって、彼女のような存在はある意味で脅威だった。

 嘘は他人に嘘であると知られた時点で、真実の嘘になるからである。知られなければ、それはただの言葉に過ぎない。

「また、試したくなったとか?」

「ちょっと、そういう言い方しないでよ」

 すごく安心できる空間だった。少し会っていないだけで忘れかけていた紫織さんとの関係を、俺はまだ覚えていたんだ。話しづらいとしても、それだけは変わっていなかった。

「別にさ、私との関係に名前なんて付けなくていいよ」

「……うん」

「不安なんでしょ。"それ"以外に私たちを繋ぐものがないから、消えてしまいそうで」

 家族や友人といった、ふんわりとした言葉が俺は嫌いだった。縛られなければ、人はいずれ裏切ると知っていたからだ。だからこそ、誰かとの特別な関係を望むとき、それ自体に名前を付けたいと願っていた。紫織さんとの関係に“偽の恋人同士”と名付けたことも、そう望んだからこそだった。別に縛り合う関係を望んでしているわけではない。ただ、そうしなければ俺は一緒にはいられない。そして、居心地もよくないのだ。

 俺と奈々さんのあいだにそういうものはあるのかは、定かでなかった。

「あの話、聞いたあとでも付き合ってくれるの? えっと、そういう意味でなくて」

「別に嫌ったわけじゃないからね」

 思いこみ、だったのか。考えてみればあのとき、俺は紫織さんの気持ちを知ろうとしないまま立ち去った気がする。そのくせ、会いたくなったらこうして呼び出す自分は、どうしようもなく馬鹿だ。こんな馬鹿に付き合う紫織さんは、きっともっと馬鹿。

 大馬鹿者だよ、紫織さんは。どうして、会いたくなったときに会ってくれるんだよ。会いたくないと言ってくれれば、俺はあなたを諦められたかもしれない。けれど、こうして会ってくれるなら小さな光が差し込み始めるのではないかと、薄い期待をもってしまうじゃないか。

「一緒にいていいの?」

 名前のない関係が、怖かった。なにが二人のことを結んでいるのか、どうすれば離れられずに済むのか、そんなことばかりを考えてしまうのである。離れることが前提の付き合いを望んでいるわけではないにもかかわらず、頭の中がそれでいっぱいになってしまうのだ。ひどい話である。

「一緒にいたくない理由、見つからないからね」

 足を踏み出すことはしなかった。腕を目一杯伸ばせば届く距離にいることで、適切な空間を保てているからだ。これ以上近づいてはいけないと、無意識下で理解していた。

「とりあえず立ち話もなんだし、移動しようか」

 まだ一緒にいてくれる気持ちがあるんだと知り、心の壁が溶けていく。

 紫織さんのことを、信じてもいいのか。信じるか信じないかは、俺自身に選択権があることなのだから、真剣に考えるべきなのだ。ここまで近づいてきてくれている彼女のことを、俺は心の底まで受け入れることができずにいた。なぜ、嫌われるようなことばかりしている俺のことを、そこまで心配してくれて受け入れようとしてくれているのか、その理由わけが見えない。正確にいえば、見せようとしてくれなかった。

「そうだね。どこへ行く?」

「私の家の最寄り駅にある、焼肉屋に行こう。ごめんね、雰囲気なくて。けど、お腹空いちゃって」

「紫織さん、雰囲気とか気にするんですね」

 ちょっとした意地悪を言うと、彼女はバツが悪そうに苦笑していた。

「失礼だなあ」

 紫織さんが、俺の頭を少し乱暴に撫でた。おそらくその行為になにも意味はなかったのだろう。けれど、紫織さんの気持ちを察するには十分なやりとりだった。彼女はいつだって、過剰に仲良くしようとしない。そして、ある程度の距離でずっと居続けてくれる。理解できているからこそ、これ以上の関係構築は厳しいのだろうなと感じていた。

 俺と彼女の関係は、あくまでも偽り。もはや恋人同士を演じることもなくなったため、本当に縛るものがなかった。とても口にすることはできないが、そのことで胸の奥が灰で覆われていた。どうしても苦しいが、逃れることもできない。逃れようと思っていたが、俺は自分から紫織さんに連絡をしてしまった。

 なにをしてるんだろう、本当に意味が分からない。自分のしていることが周りにどんな影響を与えるのか、それが理解できていないことだけははっきりと分かっていた。


 紫織さんの家の最寄り駅へ向かうことになり、俺たちは切符売り場の前にいた。先に歩いて進んでいってしまった紫織さんのほうを見てみると、小さく手招きをしていた。なにをしているんだろうと思いながら切符を買おうと路線図から値段を調べていると、近づいてきて声をかけてきた。

「切符、回数券あげるから買わなくていいよ」

「え? これくらい大丈夫です。自分で払いますから」

「いいよ。どうせ、使い切る前に失くしちゃうから」

「そういう問題ですか」

 適当なんだか厳しいのか、考え方が謎だ。失くしてしまうならなぜ買ったのかと思ったが、どうやら期限が近いために金券ショップで安売りしていたようだ。それでももったいない気がするが、細かいことを指摘すると怒られるのでやめておこう。


 鮎川から電車に乗ったが、それほど距離がないのでいつもの駅にはすぐに着いた。乗っている最中に気づいたことがあった。それは電車の窓に反射する俺と紫織さんのあいだに、以前よりも空白が見えたことである。しかし、そう見えたのはきっと気のせいだろう。

 電車から降りて改札口を出ると、左手に例の焼肉屋が見えていた。人のいる気配はなかったが、どうやら、ここがお目当てのところのようだ。ふと隣を見ると、嬉しそうな顔をして紫織さんが手を使って指し示していた。

「ここだよ。入ろうか」

「うん」

 営業時間を見ると、深夜一時までとなっていた。さすが、繁華街の入り口にある店舗だ。半地下のようなつくりになっており、階段を降りていくともう一つ扉があった。開けると、たちまち鼻の中が肉を焼く煙に覆われていった。久しぶりにこの感覚を味わったような気がする。

 店内に入ると、先客が三組いた。中央にあるテーブルが空いていたので、そこに座ることになった。

「とりあえず、盛り合わせでも頼もうか」

「うん。それでいいよ」

 楽しそうにメニュー表を見せながら話しかけてくる紫織さんを見ているだけで、俺の心は満たされていった。

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