第14話 大晦日の夜は

 年末の独特の雰囲気があった。道行く人は少ないけれど、どこか浮かれている様子がみえた。

 それは奈々さんも例外ではないようで、つい数時間前にご飯を食べませんかという誘いの連絡がきた。今日は大晦日だ。いつもならば実家に帰省している時期なのだが、心のどこかで勝手に期待して待っていた自分がいた。そのため、実家には帰省せずに自分の家で過ごしていたのだ。

 期待通りの誘われ方に、俺は完全に浮かれていた。そんな俺につい数分前から付きまとっているのは、どこの誰だかも分からないお兄さんだった。せっかくのいい気分が台無しになりそうである。

「お姉さん、こっち。ねえ、こっち向いてよ」

 口を利く気にもならず、俺は黙って歩き続けていた。そのあたりにいるお姉さんたちじゃなく、なんで男を誘おうとしてるんだよと思った。けれど、自分の容姿が女であることを思い出し、すぐにその場を立ち去ろうとした。それがいけなかったのか、お兄さんはとても必死に追いかけてきていた。

「なんで黙ってるの? とりあえず、どっかでお茶でもどうよ」

 なにをどう思っているのかは分からないけれど、こんなにあたりが真っ暗な時間帯に喫茶店など開いているわけがないだろう。どう考えても怪しい誘いとしか思えない。

 そもそも、大晦日に見知らぬ女を誘うような男がまともなわけがない。

「ねえってば」

 腕を強引に掴まれた。俺はとうとう、この怪しい男と話をしないといけなくなったようだ。いったい、俺をどうするつもりなんだ。

「なんですか」

「いや、逃げなくてもいいじゃん。ちょっと話しようって言ってるだけなのに」

 この男、急に見知らぬ他人から追いかけられる恐怖を味わったことがないようだ。こちらはまだ心臓がいつもより早く動いているというのに、目の前の男は平然と振る舞っている。腹が立った。なぜそんなに平気な顔で俺に話しかけられるんだ。どういう生活をしていたら、そんな常識はずれなことができるんだろう。

「もう行っていいですか? 待ち合わせしてるんで」

「誰と? こんな時間に?」

 時刻はすでに夜の十時を回っていた。腕を振り解くことができず、俺たちの横を酔っ払った若い男女が大きな声を出しながら通り過ぎていった。

「そんなの、別に言わなくてもいいですよね」

「強気な姉ちゃんだね。俺、そういうの好きだよ」

 心の底から黒い液体が湧き出てくるような感覚だった。なんだこの男。どう考えても失礼な行為であるということを分かっていないのだろうか。

 怒りから呆れへとスイッチが完全に切り替わり、俺はこの男にまともな会話は成立しないと識った。はっきりと丁重に断わらなければ、ずっと付きまとってくるだろう。

「あの、すみません。もう行くので離してもらえますか」

「おいおい。まだ俺との話、終わってないだろうが」

 ほんの一瞬、変態男の気が緩んだ。男の力が抜けた瞬間、待ってましたと言わんばかりに俺は思い切り腕を振り払った。そして、待ち合わせ場所のバーへと早歩きで向かった。だが、そこである事件が起きた。店の前に着くと、店内の明かりはおろか看板の光もついておらず、人がいる気配も全くなかった。試しにドアを開けてみようとしたものの、当然ながら鍵がかかっていた。腕と服が擦れる感覚が普段とは違うことに気づき袖をあげてみると、鳥肌が立っていた。

 ああ、終わったんだ。俺は確信した。

「なにしてるの? 開いてないじゃん、そこ。無駄な抵抗はよそうぜ、お姉さん」

 少しパニックになっていた俺はどうすればいいのかが考えられず、全速力で走ってその場を去った。男の怒鳴り声のようなものが後方から何度も聞こえたが、もう振り返りたくもなかった。

 なんとか振り切り、待ち合わせ場所の近くにある交差点で待つことにした。電話してみたものの、奈々さんの持っている携帯電話の電源が入っていないようだった。こんなときに限って繋がってくれないなんて。ここで待っていないと奈々さんと会えそうになかったので、その場を離れることもできなかった。

 孤独感が最高潮に達し、俺は泣きそうになっていた。いつ来てくれるのか、本当に来てくれるのか。そして、年を越す前に会えるのか。なんでこんな思いをしないといけないんだ。なにか罰当たりになるようなこと、してしまっただろうか。

 折り返しの電話もかかってこず、俺はじっと耐えるしかなかった。


 人の流れを何度か見届けた後、突然交差点にタクシーが止まった。なんでこんなところでと思っていると、そこから見覚えのある姿が降りてきた。確信が持てずにいると、その姿は次第に俺のほうへと近づいていることが分かった。

「ごめん、飛鳥! お待たせ!」

「…奈々さん?」

 時計を見てみると、十一時になっていた。遅いよ、奈々さん。なんで、携帯の電源入ってなかったんですか。

「待ったよね。ほんとにごめん。このままだと年越しちゃうと思って、タクシーで来たよ」

「もう……今年中には会えないのかと思ったよ」

 待つことには慣れているつもりだったが、今日はとんでもなく辛かった。辛くて、思わず笑ってしまった。

「なんか、すごく嬉しそうだね?」

 的外れなことを平然と言う奈々さんがおかしくて、変な笑いは止まりそうになかった。心の中は、こんなにも寒いのに。

「当たり前だよ。さっきまで大変だったんだから。っていうかね、待ち合わせしてたバーはそもそも今日は時短営業だったから入れなかったよ。変な男にも付きまとわれるし」

 そう伝えると、奈々さんはそっと抱きしめて背中をさすってくれた。なにも言わなくてもいいよと思ってくれているような気がした。それでも、まだ寒さが和らぐ様子はなかった。寒くて寒くて、凍えそうだ。

「そっか、辛い思いさせてごめんね。……ひとまず、どこかに移動しようか」

「うん。ここから離れたい」

 あの男と鉢合わせすることだけは、なんとしても避けたかった。というよりも、奈々さんが来てくれて本当によかった。来てくれなかったら、今頃どうなっていたんだろう。

「なにか希望ある? それとも、おまかせコースでもいいかな」

 おそらく奈々さんの頭の中である程度は行きたいところが絞られているのだろうと思った俺は、あえてなにも提案しないことにした。

「いいよ。もう今年も終わるし。頭も回らないし」

「もうすぐで年越しだけど、それは別に関係なくない?」

 彼女の笑いにつられて、俺も疲れた笑いを浮かべていた。寒さのせいで、俺の表情筋は上手く動かないようだ。


 奈々さんに連れてこられたのは、裏路地にあるおしゃれな飲み屋だった。カウンターはなく、低いテーブルと椅子が並べられていた。彼女いわく、年に何度か来ているらしい。マスターとの関係もそれなりにあるのか、楽しそうに談笑していた。

「マスター、今年もありがとうございました」

「いやいや、こちらこそ。えっと、そちらはお友達?」

 彼はかなり気さくな雰囲気の人で、なかなかのイケメンだった。店内が暗かったので、そう錯覚しているだけなのかもしれないけれど。正直なところ、男の人に対しての興味が全くといっていいほどない。そのため、顔が整っていたり声が渋くてかっこよかったとしても、心の底からどうでもいいと思ってしまう。話をするのが上手そうなので、それで女の人にモテそうだなとは思った。だからといって、嫉妬とかそういったものは全くない。

「そうよ」

「なんだ。てっきり彼女さんかと思ったよ」

 俺って、つくづく単純なんだな。奈々さんとそういう関係にあると勘違いされただけで、思わず舞い上がってしまったのだから。その感情の行方が見つからず、悶々とした塊が胸の奥を漂っているようだ。奈々さんの彼女という扱いをされると、嬉しいと思えるらしい。

 いや、少し待ってほしい。マスターが奈々さんの彼女のような人と会うのは、これが初めてではないのだろうか。今までのどこかのタイミングで、もっといえば以前彼女さんらしき人と一緒にここへ来たことがあると、そう疑わざるを得ない言い方だった。

「違うよ。ね?」

「あ、はい。そうです」

「毎年、違う女の子を連れてくるからね」

「ちょっと、変な誤解されるからやめてよ」

「はは。まあ、ごゆっくりどうぞ」

 きっと解決できないであろう悩み事を植え付けたまま、マスターが去っていった。

 彼女。奈々さんの、彼女。二人で並んで歩いていれば、そう見えなくもないのだろうか。できることなら、俺は奈々さんと手を繋いで歩きたいし、もっといえば腕を組んだりしたい。仲のいい女の子同士が腕を組んで歩いているところを、街中で何度も見たことがある。その感覚で、俺も奈々さんとそういうことができないだろうか。

 本当の彼女ではないのだから、そこまでを求めてはいけないのだろう。奈々さんになにかを期待していることも、求めることも、本当はあってはならないことなのだ。名前を付けた関係で、奈々さんと俺を縛りたい。離れることができないように、結びつけたい。自分から奈々さんのことを振ったくせに、今更なにをいってるんだろう、俺は。

 わがままで自分勝手で、最後は女に甘えている。そんな一面を持っている自分が、心底嫌いだった。

「女の子、たぶらかしてるんですか?」

「ちょっと。その言い方はひどくないかなぁ」

「あの、聞いてもよければ答えて欲しいんですけど。…それって元カノですか?」

 踏み込んだ質問だと、口に出しながら気がついていた。別にどうだっていいはずなのに、どうしてか気になってしまう。奈々さんのことならば、たとえ過去の話であっても知りたいとそう思う。紫織さんにしたことと、きっと同じことをしようとしている。

「違うよ。付き合ってはなかった」

 いろいろと考える余地を残すような発言は、謹んでほしい。これ以上聞いたとしても、きっと奈々さんは当たり障りのない回答しかしないだろう。興味がないといえば嘘になる。だが、追求するつもりもさほどなかった。

 奈々さんからの目線に耐えきれず、ふと下のほうを見ると奈々さんの爪が店の中にある間接照明の光に反射しているのが見えた。

「ネイル、綺麗ですね」

「え?」

 話題転換の方法が分からず、強制的に流れを変えることにした。戸惑っている様子だが、そんなことを気にしている余裕はない。

「ああ、ありがとう。でも、そろそろ手入れ行かないとだめだね。これは」

 会話の中身なんて、きっとどうでもよかった。言葉を交差させる行為に、なんともいえない気持ち良さを感じていた。今の、この瞬間は奈々さんの時間に俺がいると思うと、なんともいえない嬉しい感情が渦巻いた。

「あの、今頃気づいたんですけど。奈々さん、アイシャドウいつもと違いますよね?」

「よく気がついたね。変えたよ」

 彼女は置いてあったグラスを手に取り、口につけた。傾けて飲んでいる姿が綺麗で、目線をそこから離すことができなかった。グラスを持つ手先も、綺麗だった。入っていたシャンパンを飲み干し、彼女は鞄の中から白い箱を取り出した。

「ごめん。タバコ、吸ってもいい?」

「…あれ? 奈々さんってタバコ吸う人だったっけ」

「たまにね、吸うのよ。ある人に影響されて、頻繁ではないんだけど吸うようになった、かな」

 今日は疲れているせいか、彼女の発する言葉の一つひとつが耳の奥で引っ掛かる。気にしていても仕方ないのだけれど。昔関係のあった人の影響なんだろうなと思うと、なぜか胸騒ぎがした。

「どうしたの? 今日は、なんだか…」

「なんだか?」

「……寂しそう」

 余計なお世話だ。彼女みたいなこと、言わないでほしい。俺と奈々さんのあいだには、未だ途方もない距離と壁が存在しているのだ。それが消えない限り、俺は奈々さんのそばに寄り添えない。つまり、これ以上は物理的にも精神的にも近づくことなどできないのだ。そうなることを受け入れなければ、この関係は終わりを迎える。


 どれくらいの時間が経ったのだろう。何度グラスを交換したのか分からないほどに、俺は酔っ払っていた。初めと途中の途切れた記憶はあるのだが、かなり曖昧になっている。そして、頭が回っていないのか考えることもままならなかった。

「姉さんたち、終電とか大丈夫なの?」

「…とりあえず、大丈夫かな。もう店閉めるの?」

「お客さんが全員帰ったら、俺も帰るよ」

 見回すと、俺たちともう一組しか店内にはいなかった。どうやら、向こう側にいる二人も酔い潰れているようだ。店内に響く有線が、なんともいえないもどかしさを演出していた。

「そうですか。……それならそろそろ帰ろうか、飛鳥」

「うん」

 物事の終わりというものが、俺はとんでもなく苦手だった。それらに対して嫌悪感すらあった。終わりが近づくと、俺は子どもみたいにこの時間が終わってほしくないとかもっと一緒にいるとか、そんなことを考え始めるのだ。どうしようもない現実を、避けるように耳を塞ごうとしていた。意味がないと分かっていても、人間というのは同じことを繰り返してしまう生き物なのである。


 外で待っていると、奈々さんが引き戸を開けて出てきた。会計をお願いしていたので、金額の半分くらいを奈々さんに手渡した。すると、奈々さんは『いいよそんなの』と言い始めた。それだけはだめだと思い、半ば強引に奈々さんのコートのポケットにお札を差し込んだ。お金のやりとりというのは、ある程度厳密でなければいけないのだ。

「返すよ。ほんとに」

「いいですって。奈々さんにご飯奢ってもらう理由、ないですから」

「…でも、かなり待たせたでしょう? そのお詫びってわけじゃないけど、そういうことにしてもらえないかな」

 終わらせたくない。このヘンテコなやりとりさえも、ずっと続いてほしいと思っていた。もうすぐ終電だから急がないといけないけれど、時間が無限に伸びればいい。日付が変わりさえしなければ、ずっとこうしていられるのに。ずっと、夜でいいのに。針がぴったりと重なるときが、段々と近づいていた。

「ね」

「どうしました?」

 観念しましたと言わんばかりの歪んだ微笑みで、奈々さんはあることを持ちかけてきた。直感的に、どうせロクでもないことを考えているのだろうと察した。

「そこまで言うなら、どこかで"休憩"していこうよ」

「奈々さん……」

 ここまであからさまな雰囲気の誘いかたは、もしかするとこれまでなかったかもしれない。奈々さん、意外と大胆な人なんだろうか。それとも、なにも考えてないだけか。

 どちらにせよ、俺の心を掻き乱す天才であることには変わりなかった。友人という垣根さえも、奈々さんは乱してしまうのだろうか。

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