第13話 放射冷却
「今日、最低気温が0度下回るらしいよ」
「雪、降る予報だったね」
「もっとくっつかないと、寒いよ。飛鳥」
二人では狭い布団に無理やり包まっているので、どちらかが寄ると、反対側が空いてしまう。そして、それを繰り返すうちに布団に気を取られていることが馬鹿馬鹿しくなってくる。そんな戯れあいを続けていると、窓の外から差し込む日が目の中に入ってきた。それがあまりに眩しく、俺は陽の光から隠れるようにして奈々さんの胸元に顔を埋めた。
「んん…? 飛鳥……ちょっと、急にどうしたの」
うたた寝をしていた奈々さんが、寝ぼけた声で抵抗していた。手のひらで頭をポンポン叩くだけだったので、これを抵抗と呼んでいいのかは不明だが。
「太陽が出てきたから、隠れようと思って」
「……それだけ?」
お互いの体を触っているうちに目が覚めたのか、声のするほうへ目線を向けると、柔らかく微笑む奈々さんがそこにいた。いつも通りの彼女だと思うと、無性に嬉しくなった。寝起きの奈々さんは、どこか機嫌が悪そうに話すからだ。実際にはそんなことないと分かっていても、自分がなにかをしてしまっただろうかと心配になってしまう。相手の機嫌をとることに、俺は必死だった。
結局、俺は自分のことばかり考えているだけなのだ。怒られたり嫌われないように、できるだけ表面上だけの会話を心がける。そして、ある程度親しい相手の心に深く立ち入ることは決してしない。むしろ、距離感を保とうとするがあまり、距離が離れていくことがよくあった。
「それだけ、だよ」
距離を保つことを実現するために、俺は常に箱の中で暮らしていた。他人から、どんなときでも許される存在でありたいと思っている。だからこそ、誰とも親密な関係にはなりたくないし、なる気にもならない。密になるということは、別れが辛いからだ。
その場しのぎの生活、やり取り、そして会話。日常の中で繰り返されていくすべてが、俺にとっては嫌でたまらなかった。別に他人が嫌いなわけじゃない。嫌いになれるほど、親しくはならないのだから。
「飛鳥……こっち向いて」
奈々さんの手は、ほんのり熱を帯びていた。彼女の手のひらが、俺の頬に優しく触れていた。子どもみたいな口づけ。唇同士を魚みたいに突っつき合うだけの、遊び。何度も繰り返していくうちに、お互いの熱い息がかかる。
「飛鳥、目がトロンとしてるよ」
「え? どういう意味?」
「なんていうかね、涙でいっぱいだし眠そうになってるよ」
「なんでだろう。全然眠くないのにな」
心がそわそわしたままする口づけは、感情のパラメーターを狂わせていた。もはや制御できるかどうかは不明瞭で、自分が次にどんな言葉を発してしまうのかが不安だった。
一晩中お互いの存在を確かめるように触りあっていたので、服を着ているかどうかも怪しい状態になっていた。いざ布団の中を進んでいくと、奈々さんの周りには布状のなにかが邪魔をしていた。きっと、上の服だけがかろうじて残っている状態なのだろう。
「…もう朝だよ?」
なんの心配をしてるんだろうと思ったが、お正月の朝から奈々さんの体温を感じたい俺のほうがおかしいのかもしれない。今じゃないと言いたげな彼女の表情が、より得体の知れない感情を増幅させた。
「だからいいんじゃん」
元々どちらにも属していない俺たちの間にある、恋人と友人の境界線が消えかかっていた。
どこからを恋人とすればいいのか、どこまでが友人なのか、それとも俺たちはすでにどちらにも該当しないのか。なにも分からないままに、目の前の温もりを手放さないように、何度も抱き合った。それがたとえ一抹の温もりであったとしても、そこに
初めは唇の感触を突いて確かめるだけだったが、やがて唇を重ねる時間が伸びていった。伸びていくと、当然その先がある。
「熱いね、飛鳥」
えっちだなあ、と思った。目の前の女の人が、唾液の交換をするように舌を交わして、頬のあたりをだんだんと紅色に染めていく様子が綺麗だった。彼女の口の中は熱く、離れるのが惜しいほどに居心地が良かった。離れたくはないが、離れないといけない。そうしなければ、お互いに酸欠で意識が飛んでしまうだろう。それはそれで良さそうだと思ってしまったが、奈々さんに後で怒られそうなのでやめておく。
「…はぁ。ちょっと飛鳥、いったん休憩しよ?」
「そうする?」
「……そんなあからさまに悲しそうな顔しないで。まだ時間はあるわ」
胸に俺の顔を当てながら、奈々さんは頭をそっと撫でてくれた。それがあまりに気持ちよく、ずっとこの時間が続けばいいのにと願うほどだった。
演じることに徹するはずが、いつのまにか甘え続けるだけの俺がそこにいた。そのときに俺は気づいてしまった。奈々さんと離れることが、今までのどんなときよりも辛く感じたのである。
次の日になり、俺は一人で街に出て歩いていた。今日は奈々さんに用事があるらしく、一緒にはいられないのだ。そして、雪の予報通りうっすらと道路や木々が白く染まっていた。
あたりを見回していると、雪の影響で白くなっている街並みに驚きを覚えつつも、いつもより人が密集しているような気がしてならなかった。そして知っている人が誰も近くにおらず、孤立感を抱いてしまうことがなぜか苦しい。これまであまり感じたことのない感覚に、戸惑いすらあった。思い返すと、そう思うのも仕方ないのかもしれない。年末年始を奈々さんの家でこもって過ごしていたせいか、近くに彼女がいないだけでそわそわしてしまうのである。カーテンを閉め切った暗闇の中で過ごす時間は、とっくに終わりを迎えていたのだから。
「はぁ」
「どした? らしくないじゃん、ため息なんかついて」
耐えきれず、今日まで休みだという大学時代の友人である藤村あずさを呼び出し、居酒屋に来ていた。奈々さんと一緒にいる時間が長すぎたせいか、副作用ともいえる症状が俺の心を襲っていた。
「付き合ってた人がいるんだけど。ちょっといろいろあって、別れてね」
「どんな感じの人? イケメン?」
なんの疑いもなく、女なら男と付き合うという考え方が俺はあまり好きじゃない。もちろん、それが当たり前なのだと言われるとなにも返せない。しかし、法律の整備により日本国内であればどこに住んでいても、パートナーシップという関係で同性同士の結びつきを築けるようになった今では、古い考えなのではないか。
「まあ、そうとも言えるかな」
「妙な言い方ね。訳あり?」
「どうだろ。綺麗な女の人だった」
そう伝えると、あずさは目を見開いて黙っていた。その状況が気まずく苦笑いで誤魔化していると、彼女も苦笑いでやり過ごそうとしていた。
「…えっと。どういう意味? 浮気されてたってこと?」
「ううん、違う。わたしがその人と付き合ってたってこと」
「大垣が、女の人と付き合ってたの」
「そう」
彼女は怖い目をしていた。とてもじゃないけれど、いつもとは違って俺のことを拒絶するような恐ろしい目だった。
「ごめん、あたしそれだけは受け入れられないな」
「どうして?」
「理由なんてないよ。ただ、どうしても無理」
「……そっか」
受け入れられないことを、受け入れる。そのくらいの余裕、俺にだってあるはずだ。今までだって、ずっとそうしてきたじゃないか。それと同じように、今も受け入れるべきなのだ。
「別にさ、飛鳥のことを嫌いって言ってるわけじゃないんだよ。ただ、そういうのはあたしが無理ってだけで。それ以上の意味もないし、それを否定したいわけでもないよ」
「まあ、そうだよね」
いつか、こういう日がやってくると思っていた。みんながみんな、俺の考え方を受け入れられるはずがないことは、とっくに知っていた。分かっていたからこそ、胸が痛んだ。心のどこかで、あずさなら黙って受け入れてくれると見込んでいた。勝手に期待していた俺がよくないのだ。
勝手に期待して、勝手に裏切られた気になっている。そんな自分が、惨めだった。
「それで、続きがあるんでしょ」
「うん。そのあとで、別の人と体の関係になっちゃってね。なにやってんだろって思って」
「大垣、爆弾発言にもほどがあるよ、それ。すみませーん。生中二つください!」
彼女は俺のことを名字で呼ぶ。大学に通っていたときと、なにも変わっていない。当時のことをふと思い出して、懐かしかった。
「急にニヤけてどしたの」
「ううん。なんでもない」
思い出し笑いをしたあとで他人にそのことを指摘されるのは、案外恥ずかしいものだ。他人から見える自分が、一番正しい姿なのだ。
「どこがよかったの? 顔か性格か……いや、大垣なら夜のアレで惹かれたとか普通に言いそうだな」
「そう言われても……パッと思いつかないよ」
奈々さんのどこがそんなによかったのだろう? もしかして情が移ったのか?
友人としても、恋人としても受け入れられないと思っていた彼女のことを、体を重ねるだけの関係なら受け入れてしまった。そこに心が宿っているかと聞かれると、回答に時間がかかる質問だと突っぱねるだろう。
「あんたって、相変わらず寂しがり屋なんだね」
そう言われ、あずさに頭を撫でてもらっていた大学時代の記憶を辿っていた。思い返せば、俺は女に甘えてばかりの人生だ。
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