第12話 冬のあしおと

「なにがあったのよ。…話しても大丈夫なら、聞かせて?」

 あくまでも、奈々さんは第三者目線だと言っているようだった。その言い方で、無性に腹が立っていた。

「そんな、他人事みたいに言わないでくださいよ……」

 そう返すと、奈々さんは目を真っ直ぐにこちらへ向けて、なにを言っているのか分からないというような表情を浮かべていた。とぼけているフリをしているのか、本当に気がついていないのか、その判別はまだ定かでなかった。

「とりあえず、飛鳥が考えてるのって富士宮さんのことよね」

「そうだよ」

 誘導するような質問をしてきたにもかかわらず、奈々さんは返答に困っていた。そんな顔をするくらいなら、聞かなければよかったのに。なんてことを思ってはいたものの、より謎が深まってしまっていた。

 奈々さんと紫織さんのあいだには、俺が知らないなにかがある。今まで持っていた疑問が、たしかなものに変わった瞬間であった。

「それが、どうかしたんですか?」

 嫌な予感がした。昔から、こういう感覚は鋭くてあまり外れることがない。認めたくはないが、おそらくそれしか思いつかない。こんなにも奈々さんがげっそりとしているのは、酒が入っていない環境では初めて見るからだ。

「奈々さんは、気づいてなかったんですか?」

「あ、いや……」

「そうですよね。わたしの質問がおかしかったですよね、すみません。…いつから気づいていたんですか?」

「えっとね、多分、一年くらいは経ってるかもしれない」

「そのあいだ、ずっとなにも言わなかったんですか?」

 彼女はため息を吐いた。ため息が去ったあとに残ったのは、重い感情だった。

 こういう場合の沈黙の時間をどうすればいいのか、考えていると眉間にシワが寄っていた。癖がついてしまうのでいけないと思い、すぐに指を使って横へ広げたが、どうやら効き目はなさそうだ。

 長く押し潰されそうな冷たい空気が身を包んでいたが、奈々さんはようやく返事をしてくれた。

「言ったよ。謝った」

「謝った……ってどういう意味ですか」

 彼女の、茶色に染まった髪が踊った。そちらの気を逸らしたいのか、髪を後ろで縛り始めたのである。いくら結んでも思ったようにできないのか、何度も結び直していた。

「そのままの意味よ。『ごめんなさい、富士宮さんとは付き合えません』って」

「なんで…ですか?」

 意外だった。奈々さんの性格から考えると、誰からの告白も受け入れる気がしていたからだ。考えてはいなかったものの、もし俺が奈々さんに告白すれば絶対に受け入れてくれると、そういう人だと勝手に捉えていたのだ。

「これ、言ってしまうと自分に返ってくるだけどね。女同士じゃない? しかも同じ職場の人だし。きっと耐えられないなって思ったの」

「でも、奈々さんおれ…わたしに告白っぽいことしてますよね」

 感情が入り込んでしまったばかりに、思わず奈々さんの前で“俺”と言ってしまった。聞こえてしまっただろうか。聞き間違いだと思ってくれれば、それでいいのだが。

「そうだよね、そう思っちゃうよね。なんでだろうね、飛鳥にはそういうストッパーみたいなのはかからなかったんだよね。素直に伝えてみようって、思ったの」

 心が燃えそうだった。顔に出ないように頑張っているつもりではあるが、奈々さんに真実を伝えたいという気持ちが芽生えつつあった。紫織さんに言ったのだから、奈々さんに伝えても問題はないと思うかもしれないが、そんな簡単な話ではないのだ。

 本当は男だけど、体が女みたいになって戸籍も女に変えてるんだ。そんなこと、誰が信じる? 少なくとも、俺が誰かからそう言われたら、新手の詐欺か何かかと疑ってしまうだろう。もしくは、今日は四月一日だったかと日付を確かめる。双方ともに違うと分かれば、本当にそうなのかと真剣に話を聞く気になるだろう。

 そもそも、俺が今でも男として生活していれば、こうして奈々さんと話す機会なんてきっと訪れなかっただろう。もしあったとしても、こんなに親密な関係にはなれないはずなのだ。女同士という特殊な関係であるからこそ、この会話と空間が成立している。

「これ、前に聞いたことあるかもしれないんですけど、奈々さんは女の人が好きな人ですか?」

「難しい質問ね。付き合ったことがあるのは、男の人だけよ」

「じゃあ、女の子とそういう関係になったことはないんですね」

「…あるって言ったら?」

「え」

「一度だけあるの、女の人とそういう……体の関係になったことが」

 さりげなく爆弾発言をする奈々さんに、俺はついていくのがやっとだった。もはや当事者である意識はどこかへ消え、ラジオドラマを聴いているような感覚に陥っていた。

「わたしの知らない人ですか」

「ううん。富士宮さんなの、その相手。初めは冗談だったんだと思うわ。寒い季節だけど、そういう人いないねって話になってね。『誰でもいいなら私としてみる?』って、冗談で富士宮さんが言い始めて。それに賛同したの。そしたら、いつのまにか話がどんどん進んでいって、富士宮さんの家でしたの」

 俺はいったいなんの話を聞かされてるんだ。話が飛躍しすぎて、ついていけない。

「それで終わったあと、他愛のない話をしてね。体を重ねていたときよりも、その時間のほうが今でも記憶に残ってるわ。それだけ、本当にそれっきり。あれから随分経つけれど、富士宮さんはもうなにも思ってないんじゃないかな」

 そんなことない、とは言えなかった。俺は紫織さんじゃないからこそ、たとえ知っていたとしても感情を届けることは本人が直接しないといけないことだ。だからこそ俺がここでするべきなのは、奈々さんから離れることだと思う。


「ねえ、飛鳥」

「はい」

「恋人じゃなくていいからさ、私は飛鳥のそばにいたい」

「そんなの、都合のいい解釈ですよ」

 好きと嫌いは紙一重というが、自分自身の気持ちの変化に追いつけなかった。俺はきっと、今の奈々さんが嫌いだ。

「仕事でも避けられてるの、結構きついんだよ…?」

 目の前にいるのは、仕事が出来て頼れる先輩である立花奈々ではなかった。俺との関係を保てるのなら、なんでもすると言いかねない危険で、なにもまとっていない奈々さんだった。


 俺は、昔から他人との境界線をきっちりと張る人間だった。けれど、友達という繋がりが嫌いだった。曖昧で、すぐに崩れてしまう脆い関係。そんなに崩れやすい存在で気づいたら消えてしまう繋がりならば、友達なんぞ要らないと思っていた。だからこそ、俺は恋人という関係に溺れてしまった過去がある。

 その一件以降、俺は他人を信用できなくなっていた。上辺だけの関係のぬるま湯に浸かっているほうがよほど居心地がいいと、そう考えるに至ってしまった。目の前で必死にお願いしてくる奈々さんが、嘘をついているとしか思えなかった。もっといえば『これから言うことは嘘だけど、飛鳥のこと好きだよ。偽物の恋人になろう』と言ってくれたほうが、すんなり受け入れられるだろう。

 真実を真実と受け止めることができない。受け止めた先の未来が見えないからこそ、俺はまた逃げるのだ。


 冬は、残酷だ。温まっていた心をこんなにも簡単に崩してしまうのだから。紫織さんも奈々さんも悪くない。すべて、俺が悪いんだ。そう考えれば、いいのだろうか。奈々さんの本心も、紫織さんの本心も知っていながら、俺は奈々さんとの関係をだらだらと続けていていいのだろうか。きっと、これはよくないことなのだろう。紫織さんと別れた直後に、紫織さんの本当に好きな相手が奈々さんの本当に好きな相手と関係を持つことなんて、決してあってはならないはずなのだ。

「……分かりました」

「え?」

「奈々さんがそれを望むなら、友人のうちの一人になってもいいですよ」

 限りなく嘘に近い真実。酔いが回って動けなくなっていることが常な先輩、奈々さんのことを見捨てずに自分の家に招き入れるくらいには、彼女の存在をすでに受け入れてしまっていたのだ。それを、友人という関係性で縛ることで、俺は今の奈々さんとの関係を維持することに注力することにした。

「それでいい」

 本心でなくとも、その場の流れでうっかり発言してしまうことはないだろうか。おそらく、このときの奈々さんもきっとそれだった。自分の望みがある程度満たされると、それが望まない結果を生むと分かっていても了承してしまうものである。

「それでいいよ、飛鳥」


 せめて、友人らしく。そして、俺はきっと奈々さんのことが友人として好きだ。そう思えるように、努力しようと思う。たとえ、叶わなかったとしても。

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