第11話 雨はいつあがる

 幸せだった。本当に、幸せだったんだと思う。

 寂しいとメールをすると、紫織さんから電話をかけてくれる夜。仕事終わりだけど少し会えないかな、とメールしてくれる彼女。俺のことを思ってくれているんだと、心の底から感じていた。

 それでも、俺は紫織さんとの関係に後ろめたさのようなものを感じていた。包み隠さずにいえば、俺はもう限界がきていたのだ。

『今日の夜、会えないかな』

 手元で小刻みに震える携帯を手に取ると、紫織さんからのメールが届いていた。俺にとって、紫織さんとはなんなのだろう。名前をつけるのなら、それはあくまでも偽物の彼女と彼女。それ以外のなんでもないはずだった。

 この関係を崩すことも、発展させることもできない。もし俺が紫織さんの彼女になれたとして、それはおそらく想像している理想像とはかけ離れているのだ。そう思ってしまう理由は至極単純で、彼女に対して嘘を吐き続けているから。そして、それを真実かのようにして振る舞っているため。いつまでもそんな嘘が突き通せるはずがない。


 いつもの紫織さんの家にいた。しかしなぜだか、昨日までのような会話がなぜかできずにいた。きっと俺が変な気を回しているせいで、それを紫織さんが察しているのだ。気持ちというのは、意図せずに伝搬でんぱんするものである。

「わたし、元々男なんです」

「…どういう意味? なにかのジョーク?」

 一度不安に感じてしまうと最後までやり通してしまう俺は、その日のうちに打ち明けてしまった。不穏な雰囲気が漂っていた部屋の中が、さらに混沌としてしまった。

「そのままの意味です」

 訳のわからないことを口にしている自覚はあった。それでも、このタイミングしか言えないと思った。たとえそれが紫織さんのことを傷つける結果であったとしても、俺自身の自己満足のために打ち明けることにしたのである。

「ごめんね。意味が分かってないから、説明してほしい」

 全てを話す準備はしていたので、俺は体が変化したことやそれに関連したさまざまなことを出来るだけ簡単に話した。理解されないことは話す前から分かっていたし、それが当然だと思って伝えた。だが、紫織さんの反応は予想に反していた。

「飛鳥にとっての私ってさ、都合のいい女?」

「そんなことない」

「でも、そう思ってるよね。絶対に、私が飛鳥のことを裏切らないと思い込んでる」

 彼女みたいに扱わないで、そう言いたいのだろうか。全部を理解してくださいなんてことは、心の中でも思っていないのだけれど。もしくは、思っていないと思い込んでいるだけなのかもしれない。結局、人というのは自分の思い通りに物事が進まなければ、感情が揺さぶられるものだ。自分自身を騙すことだって、時と場合によっては平気でしてしまう。

「もちろん、お試し期間なんだからそういうのもいいと思う。けど、私はそういうの好きじゃない」

「あ、うん……」

「友人としての関係のままのほうが、よかったね」

 お試しの付き合いに、俺はなにを望んでいたのだ。そして彼女は、俺になにを期待していたのだろう。本人の口からは、なにがあっても聞けない。紫織さんとは、そういう人なのである。自分の感情を決して出さず、常に演技をし続けている。彼女が本気で喜怒哀楽を出しているところを、俺は見たことがない。

 距離感が近くて騙されそうになっていたが、彼女はあくまでも『富士宮紫織』であり、俺のお試し彼女なのだ。

 自分の秘密を言った後に、とんでもなく後悔した。もうこれで、紫織さんとの関係は終わりなのだ。偽の恋人関係どころか、友人関係すらも崩壊させてしまった俺は、もうなにも行動を起こせない。それが辛い現実を見せてくるなら、いっそ紫織さんと深く関わろうとしなければよかった。

 どうやら、俺は彼女から嫌われてしまったようである。なんて馬鹿なんだ。


「どうしたらよかったんだろう」

 建物の隙間から吹いてくる冷えた空気が、俺の体を容赦なく包み込んだ。そのまま、あてもなく彷徨い歩いてたどり着いた先は小さな居酒屋だった。落ち着いたバーに行くのもありだが、賑やかで騒がしい居酒屋でなにも考えずに呑みたい気分だった。ただ、それだけなのだ。

「いらっしゃい」

 そうそう。この簡素な雰囲気が好きなのだ。周りにいるのは仕事帰りのサラリーマンばかり。俺と近い歳の人はいないようだ。もしいれば、気にしていなくとも視界に入ってくる。

「生ビール、中ジョッキください」

「あいよ」

 それから俺は、ビールと日本酒を交互に飲み進めた。料理も少し頼んだはずだが、食べた記憶が残っていなかった。とにかく、今日のことも昨日までのことも一時的でもかまわないので記憶から消し去りたかった。ただその願いを叶えるために、俺は自分の手が動く限り呑み続けた。その結果、記憶が飛んでいた。

 意識が回復したあとで隣の席から流れてくるのは、あまりしつこくない香水の匂いだった。この香り、どこかで…。

「お姉さん、大丈夫?」

「……ふぇ」

 どのくらい時間が経っているのか、そして今は何時なのか。全く状況が掴めなかったが、唯一目で見て確認できたのは真横の席にマフラー姿の女の人がいるということだった。

「とりあえず、お水でも飲んだほうがいいよ?」

 渡されたコップはとても冷えていて、水が口の中を通過するごとになんともいえない気持ち良さがあった。水という飲み物は、こんなに美味しかったのか。それとも、ここの水が美味しいのだろうか。どちらにせよ、素晴らしい飲み物であることには変わりなかった。

「飲み過ぎじゃない? 私が隣にいるあいだ、ずっと飲んでいたもの」

「はい。ちょっと、忘れたいことがあって。お酒のおかげで、全部吹き飛びましたけど」

「あのね、あなたくらいの歳でお酒で記憶飛ばそうとする人なんていないからね? どんだけストレス抱えてるの」

「お姉さんには分かりませんよ。今のわたしはやさぐれてるんです」

 見知らぬお姉さんに向かって、俺はなにを言ってるんだ。いや、待てよ。お姉さんは、見ず知らずの俺となんでこんなに仲良さそうに話せてるのだろう。もしかして、俺はなにかをしでかしたあとだったりするのだろうか。それならば、早急に謝罪をしなければならない。そう思った俺は微かに残っていた酔いを完全に取り払うため、お姉さんの用意してくださったお冷を一気に飲み干し、視線を彼女のほうへと向けた。

「もっと自分のこと、大事にしなさい」

 謎のお姉さんは、とうとう俺に向かって説教をしてきた。なんて優しい人なのだろう。記憶が戻らない限り思い出せないだろうが、改めてお姉さんの名前を聞くことができるような勇気はなかった。それならばと、俺はしっかりと彼女の顔を覚えることにした。すると、どうだろう。その顔は、ある人にそっくりだった。というよりも、それはその人そのものだった。

「ちょっと。酔いが覚めたと思ったら、次は泣くのか」

 自分でもなぜ涙が流れているのか、それは全く理解できなかった。悲しくもなんともないはずなのだが、ただひたすらに涙が溢れて流れてを繰り返していた。それはまるで、壊れてしまった水道の蛇口のような勢いだった。

「なんで、奈々さんがここに?」

「なんでって。…嘘でしょ?」

 それまでの穏やかな顔はどこへやら。奈々さんは眉間にシワをよせて、自らの携帯に残っていた着信履歴を見せてきた。なにごとかとよく見てみると、そこには俺の名前が入っていた。

「これって、どういうことですか?」

「そのままの意味よ」

 自分がどんなに最低な人間なのか、ということを思い知った。なぜなら、お酒で記憶を飛ばすより前に奈々さんへ電話を数回かけて、そのあとに記憶を飛ばしたので覚えていない。なんてひどいやつだ。俺が奈々さんの立場なら、怒って帰っているところだ。

「……申し訳ございませんでした」

「いいのよ。もう、心配ばかりかけさせて。私が来なかったら、どうするつもりだったのよ」

 いつのまにか誰もいなくなっていた店内にいるのが気まずくなり、俺たちは会計を済ませて外へ出た。

 終電が迫っている近くの駅に向かいながら、俺は独り言を漏らすように、ただ一言だけを奈々さんに伝えた。考えるよりも先に、吐き出してしまいたかったのだ。

「紫織さんと別れちゃいました」

「そっか」

 それ以上は、奈々さんからなにも聞いてはこなかった。気を遣ってくれたのか、その話を聞きたくなかったのかは判断できなかった。そしてなぜか、奈々さんは俺の手をさりげなく握ってきたのである。

「寂しい夜は、お姉さんと一緒に散歩しましょ」

 奈々さんの手は、冷たくなっていた俺の手にとって十分な温かさだった。こんなことをして、彼女は俺をいったいどうするつもりなのだろうか。

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