第10話 はつ恋、のち雨
疑似恋愛を始めて、二ヶ月ほど経ったある日のこと。俺は、待ち合わせ場所である百貨店の化粧品売り場に来ていた。
「知らない世界だ……」
実は初めて、俺はこの場所に足を踏み入れていた。いわゆるデパートコスメ、デパコスなど俺にとってはもったいない代物だ。買おうとも思えないし、憧れなんてものも抱いたことはない。女に擬態するなら、一番手っ取り早いのはメイクを上達させることだと思う。しかし、そうしようと思ったことすらない。もっというならば、女になろうと思ったことなど、一度もなかった。
どこを見ても女の人だらけで発見することが難しいと感じた俺は、仕方なく電話をかけてみることにした。そのほうが早そうだ。
「もしもし、紫織さん? どこにいるの?」
『エスカレーターの近くにいるよ。実はね、こっちからは飛鳥のこと見えてたりする』
「なにそれ?」
売り場の中にはエスカレーターは一箇所しかないので、どうやら紫織さんはこちら側ではなく、反対側にいるらしい。そう思い、人の波を超えながら探していると、ちょうど反対側の死角にあたるところで立っていた。
「ここじゃ見つからないはずだよ」
「ずっとここにいたよ?」
さすがに紫織さんの身長が小さいせいです、とは言えるはずがないので、黙っておくことにした。怒られるからというよりも、怒ってしまうのである。
「それはそうと、いいものあった?」
そう聞くとすっと怒りの表情が消えて、彼女はため息を吐いていた。
「いいや、全然だね。今季はちょっと微妙かも」
彼女の話を聞くのが好きだった。俺とは明らかに趣味趣向が異なっていたので、毎度新しい世界を見せてくれるような感覚があった。もちろん被っているところもあったが、同じ話であったとしても視点が違ったりするため、どちらにせよ楽しかった。できることなら、紫織さんの語りをずっと聞いていたかった。
紫織さん以外の人と会うことが極端に減っていた。そのことに気づいていたのか、七海が俺の最近の様子を探りにきていた。隠すつもりにもなれなかった俺は、あっさりと現状の紫織さんとの付き合いを打ち明けた。もちろん、相手が紫織さんであることは伏せたけれど。
「なにそれ。偽物彼女さんってこと?」
「……そうだね。はっきり言うとそうなる」
隠しておいたほうがいい事実も、自分の中だけで消化不良になっていると、口から溢れてしまうものである。すべてを話さないほうがいいことくらい、俺だって理解している。しかし、それとこれとは別だと言い切れるほど、俺は大人になれていなかった。
「そのうち、限界来ると思うけどいいの?」
「どういうこと?」
「だって話聞いてる限りは、完全に飛鳥がその人のこと好きになってるじゃん」
口がポカンと開いていたと思う。目の前の女の子は、なにを言っているのだろうと真剣に考えるがあまり、機能停止に陥ってしまったのである。
俺が、紫織さんのことを好き? それってどういうことだ。そんなのはあってはいけないことで、紫織さんとの疑似恋愛が成立していないことを決定付けてしまう言葉だった。そもそも、恋愛が分からないと自分で思っているにもかかわらず、なんで七海にそんなことを指摘されなければいけないんだ。
「どこを聞いてそう思ったの」
「どこを聞いてというよりはね、なんだか楽しそうだったの」
「楽しそう…?」
彼女は俺の言葉に応えるように、ゆっくりと頷いた。
「楽しそうで、悲しそうだった」
自分が相手を好きでいることと、相手が自分を好きであることは同一ではない。当たり前のことながら、忘れがちなことである。
「飛鳥、悪いことは言わないから。もうそろそろ現実見たほうがいいよ」
「七海が言うと、説得力あるね」
義理の兄を好きであり続ける七海。義理であるとはいえ、兄妹。その壁を越えることはできず、兄からは大切にされているそうだ。おそらく、七海兄は好きなことを知っているんじゃないかと思う。兄の前でどんな態度なのかは知らないが、こんなふうに辛そうな七海を見ていると、とてもじゃないが心配してしまう。
他人にはその人なりの悩みがあり、人生がある。七海だってきっと、俺にはいえない事情の一つや二つくらいあるだろう。
当然ながら、相手は俺のことが特に好きではないはずなのだ。好きではないと確定しているからこそ、俺は気持ちをすべて紫織さんに預けることができた。だが、紫織さんはそれを望んでいたのだろうか。今になってそんなことを考えるのは、遅れているどころか物事の考えが浅いことが露呈している、なによりの証拠だった。
その日は、話の流れで紫織さんの過去の恋愛話を聞かされていた。
「結婚したいと思えるほど、好きな人がいたの。もうずっと前の話ね」
「うん」
「付き合って二年目で、お互いに社会人になったから二人で住むことにしたのよ。幸せだった、あのときは。家に帰ったら、好きな人がいるってこんなに嬉しいんだって素直にそう思えた。でも、その期間はあまり長くなかった。だんだんね、家に帰ってこなくなったのよ。『友達の家に泊まりに行く』ってメールが来る頻度が上がってね。最初はそういうときもあるよねと思うようにしていたけれど、だんだんおかしいと思うようになって。聞いてみたら、隠そうともしなかった。『もう好きじゃなくなった』って言われたのよ」
「あ……うん」
言葉にできないというのは、きっとその状況のことを指す言葉なのだろう。話を聞いていて思わず、俺も似たようなよく分からない声を発してしまった。
「初めはなにかの冗談かと思ったわ。でも、違った。あいつは、部屋からいなくなった。一緒に住み始めたときはあんなに満たされていた部屋が、彼女がいなくなっただけで空虚感に満たされてしまったの。皮肉よね」
「それ以来、その人とは連絡取ったりしてないの?」
「ないね。同じスナック街で働いてるらしい、とは聞いたことがあるけれど。本当にその程度の情報しか知らない」
冷静に考えて変な話だと思った。女好きな女の人がスナック街であんなことをしているなんて。いやそれとも、男の人に対して何も感じないからこそ、より割り切って仕事ができるのだろうか。
「そこから、誰とも付き合ったりしてない。というか、女の言うことが全部偽物に聞こえるようになった。だからもう、他人に深入りするのはやめた」
「じゃあ、誰かにもし告白されたとしても、もう何も思わない?」
「…そうだな。強いていうなら、飛鳥は優しいから付き合ってもいいかなって思うよ?」
歯車が狂い始めたのは、そのときからだった。俺は、どう頑張ってもその当時の彼女さんには敵わないということだ。思い出とは美化されていくもので、紫織さんが元カノとの距離を開ければ開けるほど、俺と紫織さんの間の距離はさらに広がっていく一方だ。なおかつ、その当時の彼女さんとは違って俺と紫織さんとの間には、なにも関係性がなかった。関係を縛ってくれる“名前”がなかった。
そして俺はあろうことか、彼女の元カノに嫉妬心を抱いてしまったことに、そのときになってようやく気付いたのである。
悶々とした感情があるとき、人は言葉数が少なくなる。いつもならば、じゃれあいながら他愛のない会話を交わしているはずだが、どうも話す気になれなかった。紫織さんも俺のそんな気持ちを少なからず感じていたのか、あまり話しかけてはこなかった。
気まずかった。これまでとは違う正反対の感情を抱いていることが、戸惑いへと繋がっていた。一度気になると、そのことが永遠に近い時間だけ頭の中を駆け巡る。まさにその感覚が、俺の思考を支配していた。目を開けて見回すと、ポツリと溢れでた言葉だけが部屋の中に落ちていた。
「そろそろ、終電だ」
「今日は帰るの?」
週に何日、紫織さんの家にいないのかを数えたほうが早いほどに、俺はここに入り浸っていた。しかし、もうそろそろこの関係にも終止符を打たなければいけないのだ。頭ではそう理解している。だが当然ながら、理解していることと行動できることは同じではない。
「うん、帰る。明日も早いし」
「そか。じゃ、またね」
数秒間の沈黙。俺はなかなか足を動かせずにいた。終わらないと信じていた夏休みが、急に終了してしまうような、そんな喪失感を覚えていた。俺はきっと帰りたくないのではなく、本当は紫織さんと離れたくないだけなのだ。
「しょうがないな」
無造作に上着を着て、紫織さんは最寄り駅まで見送りについてきてくれた。それ自体は嬉しかったが、そのことを上回るほどに、彼女の手を握れないもどかしさで胸が苦しかった。
改札口前の通路は、風通しがとてもよかった。
「寂しい?」
「うん」
「また会えるよ。きっとね」
軽く、ほんの一瞬だけの抱擁だった。そこに紫織さんがどんな意味を込めていたのか、それは分からない。しかし、それが大して意味のない行為であることは明らかだった。嘘を嘘で塗り固めたのが、このやりとりなのだ。紫織さんの言葉を信じられないからこそ、安心して踏み込むことができる。この関係を維持させることで、俺は傷付かずに済む。そう信じていた。そう信じていくことでしか、俺は気持ちを保てなかった。
改札を通り、俺は後ろを決して振り向かないと心に誓い、階段を降りていった。なぜそうするか、理由は単純だ。俺が紫織さんから離れた瞬間に、彼女はすでにそこにいないのだから。振り向いたところで、彼女のいない寂しさがより際立ってしまうだけなのだ。
ホームの上にある自販機で、俺はいつものコーンポタージュ缶を買った。彼女の手の温もりとは違って、熱すぎるそれに俺は一人で笑ってしまった。
「……もう、誰も信じない」
願望が叶うことは、もうきっとない。信じたくないと思えば思うほどに、誰かに頼りたくなってしまう。その矛盾さが、あまりにも人間らしい行為だと思えて、馬鹿馬鹿しいと感じてしまった。
今までずっとそうしてきた。周囲の大人を信用できずに、自分だけが頑張ればいいと思って生きてきた。だからこそ、紫織さんの存在はそれを脅かしていた。嘘だと理解しているにもかかわらず、紫織さんは俺の作った永久凍土を溶かそうとしてくるのである。今までの俺なら、そんなことは許さなかったと思う。自分という存在が脅かされるくらいならと、不安定な関係になればそれらを断ち切ってきた。しかし、どうだろう。彼女からの感情侵食は、不思議なほどに心地よかった。すべてが嘘だと
それとも、俺は紫織さんのことが好きになってしまったのか。いや、それはきっとない。それだけは真実だと、信じたかった。
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